ぢるぢるだいありーずおぶざでっど

女性向け風俗キャスト兼売り専ボーイのブログ

風俗業界が経済支援を受け難い現状について思うこと。

最近のこの世は老いも若きも男も女も、コロナコロナで持ちきりですねぇ。早く収束して欲しいです。ホーッホッホッホ。

そんな状況のなか、国はコロナ禍の影響で経済的に打撃を受けた事業者に対しての経済支援(持続化給付金とか)を発表しているけど、風俗事業者はその対象から外れているケースが多いんですね。その「対象外である旨の説明」を聞いた時に違和感を覚えたので、この場で書いていこうと思います。

前置きですが、性風俗業界で個人事業主として働くキャスト(女風キャストやデリヘル嬢等々)は持続化給付金の対象になっているので、そこについては特に言及しません。飽く迄も対象外となっているのは性風俗店(事業者)と、そこで働く(雇用された)従業員らしいです。そこんとこよろしく。

さて、性風俗事業者がコロナ禍における幾つかの経済支援の対象外となっているのは、報道発表から解釈すると、①反社会勢力へ資金が流れる恐れ②今までの前例を踏まえて③国民の理解を得難いから、が主な理由だそうである。

まぁぶっちゃけると、個人的にコロナ禍での給付金や補助金の対象になるか否かは関心事のメインでは無いし、もはや政局の話にも余り興味が無い。給付金は貰えるなら有難く貰うし、貰えないなら貰えない事を前提に動こうかなぁと言った感じです。ただ、今回はその対象外である理由がイマイチ納得できないし釈然としないぜって話です。対象外にするならするで、ちゃんと納得のいく説明がほしいなぁと。それでは①〜③について順番にその理由を説明します。

性風俗店は風営法や暴対法等で反社会勢力との関係を排除する事を前提に届出をして営業しているのに、そこで国から「反社が云々」と言われても業界としてはどうしようもない訳ですよ。しかも、法律や条例を制定した側がそんな事を言ってしまえば、それら法令の手落ちを間接的に国が認める形になるし、その皺寄せを業界に被せるのは筋が通らないんじゃないのと思います。そしてそもそも、正当に手続きをして営業している事業者が馬鹿を見るのは違うんじゃ無いのと思います。

②国民の代表として選ばれている人がこの件について「国民の理解を得難い」と言ってしまう事の重さを理解しているのか不安になるし、「国民の理解」という印象論で給付対象外の理由を説明してしまう点が非常に恐ろしい。て言うかさ、日本で働いてる性風俗事業者って日本国民が多いと思うんだけど、その業界へ向けての説明で「国民の理解が得難い」って言っちゃうの結構ヤバいのでは。

コロナウイルスにより未曾有の事態に陥って、政府が緊急事態宣言まで発令した結果として「過去に例のない」経済支援を発表しているのに、対象外の理由が「今までの前例を踏まえて」というのはいくら何でも説明としてお粗末な気がします。出来の悪いコントのパンチラインじゃないんだから、せめてもう少し建設的な理由はなかったのかと思ってしまうのですよ。

俺が覚えた違和感はそんな感じですかね。正当な主張なのかどうかはわからんのですが、新聞やニュースを見ながらそんな事を考えていましたって話です。

ただ、今回の一連の政治的な流れを見ていて、こと風俗業界にいる場合は、(皮肉とかじゃなくて)如何に国や政治から距離をとるかが結構大切なんじゃないかなと肌で感じる事が出来たので、いい勉強にはなりました。これは別にアレだよ、「アングラで非合法な事いっぱいやるぜウヒョー!」って意味じゃなくて、こういう時に国は特に当てにならないだろうから、自分で何とかできる基盤を整えるのが大切なんだなって事を自覚できたって意味です。誤解なきよう。

ドーン!!!!

営業メールを送らない理由について

今回の記事の前提として、下記の事項を最初に読んでくださいな。

「営業メールを送る・送らない」は個々人の自由であり、他キャストがどんなスタンスなのかは俺は知らないし、そこについてあーだこーだ言及するつもりも毛頭ない。飽く迄も俺の思想の表明であって、それ以上でもそれ以下でもない。そして、俺が「営業メール」という企業努力を放棄する為のアジテーションに見えるかも知れないけどたぶん違う。そこんとこよろしく。

 

さて、風俗業界には俗に言う「営業メール」ってのがあるじゃないですか。ツールはTwitterのDMでもSMSでも何でもいいんだけど、「○○日空いてたら来てよ」とか「来月会いたいな」とか、会ったことのない人であれば「初めまして、スパ天堂のなお吉です。よかったらDMでお話しませんか?」的なやつです。

俺は風俗業界に入って3年くらい経つのですが、自分のルールとして、その手の文章は送らないようにしてるんですよ。と言うか、そもそも自分からメッセージを送る事もほぼ無いです。このスタンスに対しては「指名を得る努力が足らん」とか「なんか冷たい」とか「送ってくれた方が指名しやすい」とか有象無象の意見があるでしょうが、最初から一貫してこのスタンスでやってます。ちなみに俺がメッセージを貰えた時はけっこう嬉しいです。

なので今回はその理由を大きく2つに分けて説明してみようかなぁなんて思ったりしてます。それではいきまっせ。

①仮に自分がお客さんだった場合、営業メールが送られてきたら面倒だと感じるし、やり取り自体がプレッシャーになるかもしれないから。

②営業メールを送った結果として会いにきてくれる事に疑問を感じるから。

 

先ずは①についてです。

これは本当に人によって感じ方が違うでしょうけど、少なくとも俺があからさまな営業メールを受け取ったら「あー、ちょっとめんどいなぁ」って思うのは予想できます。アレですね、服屋とか楽器店で店員さんに声を掛けられるのが苦手なのと似てるかもしれません。単にフラっと立ち寄っただけの時に「何かお探しですか?」って言われるのはその後のやり取りが面倒だし、何か目当てがあれば自力で探すか、自分から店員さんに声を掛けるのでそっとしておいて欲しいなぁと。

さらに、服屋であれば洋服を買う・買わないを巡るコミュニケーションが主で、店員さんとの関係性をどうこうしようって訳じゃないのに対して風俗の場合は最終的にその人を指名する・しないを巡るコミュニケーションに収斂していくから、服屋よりも政治的というか、判断に対してプレッシャーがかかってしまう気がします。「会いたいって言ってくれてるしまぁ行くか。しゃーねーな」みたいな。考えすぎかもしれないけど。

早い話がですね、仮に俺がお客さんだった場合、気になるキャストが居たら自分で調べて辿り着くので営業メールは要らないよって事です。そして、会ったことのあるキャストに対しては、また会いたければ自分から連絡するから「会いたいな云々」のメールも余計なプレッシャーになるし要らないかなと思うのです。

例えば、オススメされた作品を観たり読んだりした時にはちょっとした感想を送ったりする事はあるけど、それは飽く迄も感想に留めて、「営業メールっぽさ」は極力排除してます。「ギニーピッグシリーズ観たよー。80年代とは思えないほどに映像がリアルで面白かったようへへへ」みたいな。①についてはそんな感じです。文章で余計なプレッシャーを与えちゃうかもしれないし、何だかなと思うのです。

次に②についてです。

これはですね、諸説ありますが単純に俺のエゴですね。「俺が来て欲しいと意思表示した結果として来てくれる」よりも「私が来たいから来たぜ」の方がお互いに良い気がするんですよね。勿論、俺がメール等でちょっとした切っ掛けを作った方が指名しやすいって意見は理解できるし、そういう人も少なくないでしょう。

ただ、風俗を利用する・しないの判断の主体は終始一貫して「私(お客さん側)」であって欲しいんですよ。「営業メールの結果として利用したって、最終的な判断の主体は『私(お客さん側)』じゃん」ってのは確かにそうなんだけど、その判断過程において「誰々が会いたいって言ってるから」みたいなのを混入させたくないんですよね。例えばディズニーランドへ行く時に「ミッキーが『僕に会ってよ』って言ってるからちょっと入園してくるわ」ってならないじゃないですか。普通に自分が楽しみたいから行く訳ですよね。少なくとも俺はそんな感じで良いんじゃねぇかと思うんです。

つまり、個人的には「楽しみたいから自分で選んで、楽しみたいから自分で会いに行く」って形が好みだなぁと。

その上で選ばれたら嬉しい事この上ないし、圧倒的感謝だし、尻尾振って大体の所には付いていく訳です。お化け屋敷(怖いから嫌い)と海水浴(大学生の頃にクラゲに刺されて以来嫌い。でも海辺は好き)だけは絶対に行かないけどな。②はそんな感じです。俺のエゴですね。

 

以上、俺が営業メールを送らない理由でした。ちょっと長かったけど、読んでくれてありがとうございました。

アル中カラカラとキルケゴール、或いは死に至る病からの救済について

注 : この記事は俺がwawawa氏(→wawawa - niconico(ニコニコ))を一方的に褒める内容なので、興味のない人は読み飛ばすよろし。それとな、この記事を読んでも一気飲みはあまりするなよ。以下本文。

 

我々が自分自身や世界との関係を断ち切りながら完全に「それ自身」として生きる事は大凡不可能であり、生きている限り関係性を巡る問題というのは亡霊のように付いて回る。かつて「死に至る病とは絶望である」と宣言したのはセーレン・キルケゴールであり、「絶望(自分自身における関係性の機能不全)」からの救済とは神への信仰であると喝破した。

彼の思想全てにひれ伏そうとは思わないが、関係性から生じる苦悩こそが絶望であるという見立てには成程と膝を打った記憶がある。そんな折に俺がネットの海(主にニコニコ動画)で邂逅してしまったのがwawawa氏である。ハイボールを一気飲みする前か後に「アル中カラカラ〜」という祝詞が世界の終わりのような声で放たれる様子に圧倒され、ある種の憧憬の念を抱くと共に思った。「動画内の彼は世界から断絶してんなぁ」と。

ここでwawawa氏を簡単に紹介しよう。彼は2015年頃からニコニコ動画に動画を投稿している男性であり、その内容は主に料理を作りつつハイボールを一気飲みする、或いは外出先でハイボールを一気飲みすると言ったものだ。ぶっちゃけるとそれ以外に特筆すべき内容は無い。凝った料理を作るでもなく、技巧的な編集をする訳でも無い。しかし、彼の動画には「世界からの断絶感」と共に惹かれるものがあるのだ。どのくらい惹かれているかと言うと、朝起きた時と寝る前に彼の動画を観るくらいには惹かれている。フォウリンラブである。

百聞は一見に如かずなので動画をいくつか紹介しよう。熟成肉とほうれん草のソース煮込み。食べてみた【アル中カラカラ】 - ニコニコ動画アル中パウダー作ってみた - ニコニコ動画焼肉屋さんでアル中カラカラしてみた - ニコニコ動画

これらの動画を観て、「ウワァ汚ねーな」とか「一気飲みの動画なんてけしからん!!」とか思うかもしれない。前者については俺も最初はそうだったのだが、それが何故かクセになるのだ。また後者については、愚行権(一気飲みとかなんとか)を他人に危害を加えない範囲において行使するのは当然認められるべきなのでまぁ良いんじゃねぇのと思います。

さて、この世界には多種多様な飲酒動画があるが、彼の魅力を唯一無二にしている要因を一言で表すと「死に至る病からの救済」になるだろう。神への信仰に代わり、飲酒によって死に至る病からの救済を体現しているのだ。勿論、非常に濃いハイボールを何杯も一気飲みしているので身体へのダメージは大きいだろうし、緩やかな自殺(≒リアルに死に至る病)に見えるかもしれないが、これは全く以って救済における思想的敗北を意味しない。

そう、ハイボールを作る→飲酒→「アル中カラカラ〜」(飲酒と「アル中カラカラ〜」の順番は逆の場合有り)、とは一種の儀式であり、その一連の行為と酩酊により(自己とジョッキを除く)全ての関係性を断絶する。これは単純に酒を飲むだけでは意味を成さず、飽く迄もその一連の行為を必要とする。つまり、ハイボールを作る(≒祭壇を整える)、飲酒(≒霊性を体内に取り込む)、「アル中カラカラ〜」の発話(≒祝詞を唱える)、から成る非常にデカダンな儀式である。

世界から断絶された存在はどうなるか ー 、それは徹底して「それ自身」であり、根源的だ。つまり、キルケゴールが想定した自己の関係性における無限性/有限性/可能性/必然性等からなる絶望(=死に至る病)に絡め取られない位相に「それ自身」として揺蕩う。勿論、断絶している以上は関係性が機能不全に陥ることなど構造的に起こり得ない。正に救済である。「アル中カラカラ〜」とはキルケゴール的ドグマに対し、たった一言でカウンター放つwawawa的ドグマである。これはカッコいい。惚れちゃう。

とまぁワァワァ言うておりますが、兎にも角にも1人のファンとしてwawawa氏が令和でもその存在感を遺憾無く発揮し、健康で居てくれる事を祈っています。

セラピの裏垢的な存在について思うこと

ここ最近ですね、「セラピの裏垢って知ってますか?」とか「ああいうアカウントについてどう思いますか?」みたいな事を訊かれる機会がけっこうありまして、個別で文章で説明するよりもここで俺の考えを書く方が手っ取り早いので書きます。

ちなみにここで言う「セラピの裏垢的な存在」ってのは、大雑把に説明すると「女性向け風俗で働いている(いた)と思われる人がTwitterを使い裏垢として店舗や源氏名は伏せて発言してる存在」を指します。今回は男性向け風俗やメンエス等のアカウントは除きます。そもそも、本当に働いている(いた)のかは闇の中なので、想像だけで発言してるアカウントもあるのでしょうが。

まぁ結論から言うと「あんまり関心がない」ってのが本音なので、答えとしてはそれ以上でもそれ以下でもないです。なので、それ関係の質問をされても「俺は関心がないからわかんねーなー」で終わると思います。

俺の上記の回答に対して、「でも同じ業界の人間として何か思うところはないの?」とか言われそうなので、「なぜ俺が裏垢に対して関心がないのか」について以下である程度の補足をします。

SNSでの発言は基本的に自由

②そのアカウント自体が営業戦略の一部かもしれない

③そもそもSNSは表立って言えない内容を匿名で言うのに適してるから、それ自体を叩いてもしょうがない

SNSでの発言は基本的に自由

日本では憲法で(無制限ではないけれど)表現の自由が認められているじゃないですか。俺はこの表現の自由って過去の多くの犠牲の元に明文化されて成り立っているのでとても大切だと思っているんですね。なので単純に「私が不快だからこの表現は止めろ」って言うのは自由だけど筋が通らないと思ってます。

そもそも表現の自由って、人間が生きてればその発言等の表現で故意ではないにせよ誰かしらを不快にさせてしまうのは多分避けられないので、明かに差別的だったり誰かを名指しで傷付ける表現以外は自由にいこうぜってのが根本にある訳じゃないですか。

なのでSNSのアカウントがちょっアレな発言をしていても、大体は「はぁ、そうですか」って感じですし、その発言自体を取り消して欲しいとかは思わないんですよ。

②そのアカウント自体が営業戦略の一部かもしれない。

これは単純な話ですが、「このアカウントは裏垢だからタブー無しの本音で語ってますぜ」的な建前が成り立つじゃないですか。そしてその建前を真に受ける人が一定数存在すると仮定しましょう。

賛否両論ありつつも「本音で語ってるという建前」で発言し続けている裏垢的なアカウントがそれとなく「安全なお店とかが知りたかったらDMちょうだいな」とか言ったら、上記の「建前を真に受ける人のその中のまた一部」が気になってコンタクトを取るじゃないですか。そこでそれとなく自分のお店や何かをオススメしてる可能性もあるよなぁと。

なので、俺は裏垢的なアカウントを見ても、「営業かもしれないし、本音かどうかもわかんないし、まぁどうでもいいかな」と思う訳です。

③そもそもSNSは表立って言えない内容を匿名で言うのに適してるから、それ自体を叩いてもしょうがない

SNSとか掲示板みたいなプラットフォームがある以上、匿名で罵詈雑言を撒き散らしたりなんかする人が現れるのって必然だと思います。そして、そのアカウントに対して、倫理・道徳的な観点から批判をしてもあんまり意味がないし、やはりそこには本人的にその行為をする理由があるんだと思います。

俺は「匿名で罵詈雑言を言い続ける」ってのは1つの症状、つまり強迫性障害の人の一部が手を洗い続けたりするのと同様に、「何かを解消するために無意味で過剰な行動を止められない」って事なんじゃないかと思ってます。どこか神経症っぽいなぁと。なので、「匿名で言っとらんで正々堂々と表へ出なさい!」とかは思わないです。

あとさ、匿名での発言が良くないって意見もあるかもしれないけど、風俗業界でTwitterを使ってる人は大体が源氏名じゃん。その観点でいくと俺も匿名アカウントだしね。

まとめると、「ネット上も表現の自由があるし、本音に見せかけた営業かもしれないし、罵詈雑言についてはある種の症状っぽい。それらを統合すると、『裏垢はねぇ、まぁ、どうでもいいかな』」となるんですね。

 

そんな感じです。

赤く塗りつぶす

山本直樹の『レッド』って漫画を読んでます。1970年前後の日本を舞台に革命を目指した青年達の物語が描かれていて、団体名こそ変わってますが実際に起こった連合赤軍事件を題材にした漫画ですね。  

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以前から連合赤軍事件には興味があって、書籍や映画なんかを時々チェックしていたので何となくの概要は把握してるのですが、山本直樹ファンということもあって遂に購入してしまいました。作品としてはやはり思った通り素晴らしいです。まだ最後までは読んでいないですが。

俺の山本直樹愛は別の機会に語るとして、連合赤軍関係の話って妙に惹きつけられるんですよね。あの事件って、(飽くまで俺の理解ですけど)革命への理想に燃えた若者達がその思想を余りに先鋭化させてしまったが故に組織諸共自壊していく物語じゃないですか。

その状況って何処となく今のインターネット界隈に似てるなぁと思うんですね。勿論、連合赤軍の様にゲバ棒ぶん回したり火炎瓶を投げたりまではしていないですけど。

ネット上で特定の主義主張を持って、それを積極的に発信したりシンパを募ったりしてる人っているじゃないですか。右とか左とか保守とかリベラルとかフェミニズムとかスピ系とかよく分からん風俗系とか。

そんで、それ自体は全然良いと思うんだけど、その主張方法が極端だったり先鋭化し過ぎてる人が居るなぁ思うんですよ。なんと言うか、「我々の主義主張に同調する者以外は全員殲滅すべき敵である」みたいな。さらに厄介だなぁと思うのが、それに加えて「対話はするけど反対意見は聞きません」的な態度が見え透いてる人も時々見かけるんです。

「我々以外は全員敵である」と「対話するけど反対意見は聞きません」って基準が合わさっちゃうと、相手としてはどうしようもなくなっちゃうじゃないですか。それこそ連合赤軍のように「対話に見せかけた総括」を迫る形になっちゃうんですよね。

特にSNSでは極端な主義主張は支持を(勿論不支持もだけど)得やすいから、そのまま突っ走ったら必然的にあさま山荘総括スタイルになっちゃうんだろうけど、自壊した連合赤軍みたいにならない様に歴史から学んだ方が良いんじゃないのと思った今日この頃です。

一応補足しておくけど、俺は「主義主張を発信するな」って言ってるんじゃなくて、「極端な意見を発信して、反対意見者は問答無用で全員潰す」的な思想ってどうなのよって事を言ってるだけなので悪しからず。

ちなみに山本直樹作品で好きなのは『BLUE』と『堀田』です。

 

それじゃあまた次回。

「自分を漢字一文字で表すとしたら?」って質問について

この手の質問って就活の面接等々で時々訊かれるじゃないですか。しかし例えば就活の場面だったら、外向きのと言うか採用されるにあたって有利に働く回答をすると思うんですね。ポジティブな内容とか言っちゃったりして。なので今回はこの質問に対して外向きではなく、素直に回答してみようって内容です。

先ず結論としては、自分を漢字一文字で表すと「空」だと思ってます。読みは「そら」じゃなくて「くう」、“Sky"ではなく”Vacant"の方です。

「いやいや、空っぽってどういうことやねん」って思う人が居るかも知れませんが、ちゃんと理由があるんですよ。「空」、これを何となく自覚し始めたのはここ最近なのですが、思い返すと結構昔からそんな感じだったなぁと思うのです。

つまり、俺は「様々な事物、特に倫理や道徳に対して確固たる主張やイデオロギーが特にない」んですね。例えば小中学生の頃の授業中なんかに先生から「○○君はこれについてどう思いますか?」って訊かれる場面があるじゃないですか。そんな時に結構な頻度で回答に困ってたんですよ。自分の主張が上手く言語化できないんじゃなくて特に主張が無いから。

勿論アレですよ。物事の好き嫌いはありますし、自分の意見はあるけど、「倫理観や道徳観、イデオロギー闘争でイマイチ熱くなれない」って意味ですからね。全てに対して主張が無い訳じゃないですよ。

閑話休題

なので、自分の(とりわけ道徳観や倫理観についての)主義主張を流暢に喋る同級生を見た時には「ほー、弁が立ってすげぇなぁ」とか思ってた記憶があります。それは大学生になっても余り変わらなかったのですが、流石にこのままだとヤバいのではと思い始め、何かを変えてくれるかもしれない希望を求めて文学や音楽を多く受容するに至りました。もちろん面白いし人生への刺激にもなるからってのが1番の動機だけど、自分の中に「ブレない1本の芯」をもたらしてくれるかもしれない淡い希望があったのは確かでした。恐らくこの世界を生きる上で、ある種の宗教観みたいなのを欲してたんでしょうね。

それこそ駅前で宗教の勧誘をされたら必ず付いて行って彼・彼女らの話を聞いたし、主張が強めな友人とは朝方まで議論をしたりする日々を過ごしてました。

そんな感じで音楽や文学を受容し、議論したり宗教家の話を聞いたり何なりして20代前半を過ごした訳ですが、「やっぱり俺は余り主義主張が無いのだな」って結論に至りました。しかしですね、ここで重要なのは、10代の頃に抱えてた「主義主張のない俺はヤバいのではないか?」って思いが無くなった点だと思います。一周回った上で主義主張が無い俺は言ってみればアレです、「俺2.0」にバージョンアップした訳ですよ。

「俺2.0」にバージョンアップされた後は卑屈になる事も無くなって、割と生活しやすくなりました。例えば、風俗業界って確固たる主義主張を持った人が結構居るのですが、昔だったら「うわー、凄いな、何か訊かれたらどうしよう、ぐぎぎぎ」とか思って尻尾を丸めてたでしょうが、今ならそんな事はないです。「なるほど、あなたの考えはそんな感じなんすね。俺は○○だと思います」って感じで対応できる様な気がします。相手のエクストリーム具合にもよりますが。

加えて、お客さんに限らず、対話をしている時に「言いたい事は言うし、主張は聞くけど相手の考え方は変えさせようとしない」って姿勢で居られるので特にストレスが無いです。つまり、「俺はこう思うよ」とか「こうした方が良いんじゃね?」みたいな事は言うのですが、「君は○○すべきだ!」とか「○○はダメだ!」の様な強い強制力を持った発言は余り言わないです。たぶん。相手は相手なりの思想やら行動原理で生きてるので、そこを変えさせようとは思わないんです。

まぁなんやかんや言うておりますが、俺は自分を漢字一文字で表すと「空」なんだろうなと思ってます。「俺2.0」的には「空2.0」ですけどね。この質問って就活の場面ではただの茶番になっちゃうケースが多いけど、改めて考えてみると結構面白いので時間があればやってみると自分と向き合う良い機会になるかもしれません。

そんじゃあまた次回。

あいりん地区で猛省した話

大阪・福岡出張企画の前半で大阪の通称あいりん地区に滞在しています。どうも皆さんこんにちは。

「このタイトル何やねん」って思ったそこの方、今からちゃんと3つに分けて説明するので暫しお待ちください。この通りです(^ν^)

 

①滞在場所をあいりん地区にした理由

パターナリズムについて

③あいりん地区で猛省した話

 

①滞在場所をあいりん地区にした理由

最初のきっかけは単純に交通の便が良くて宿が安かったからですね。大阪出張中だと主に梅田や難波、天王寺辺りのホテルに行く事が多いので、それらの場所へ徒歩や電車ですぐに移動できるあいりん地区って立地が良いんですよ。そんでもってあいりん地区には「ドヤ」と呼ばれる簡易宿泊施設が多くあって、おおよそ千円前後で泊まる事が出来ます。

しかし一方では、安価なドヤや寄せ場(日雇い労働の求人者と求職者が集まる場所)が多いことから路上生活者が多かったり、違法な闇市や薬物売買が行われていたり喧嘩が多かったりと決して治安が良いとは言えない地域となっています。

俺もそう言った事柄はニュース等で知ってはいたものの、何処か別の世界線の出来事の様に思っている節があったので、出張企画に合わせて現地に1週間ほど滞在してみようと思ったんですね。

パターナリズムについて

これについてはググればすぐに出るのですが、簡単に言うと「立場の強い者が、立場の弱い者の意思を問わずに(←ここ重要)、『これはお前ら(弱者)のためになるから』と勝手に干渉や介入すること」です。

例えば、親が「子供のためを思って」勝手に進路を決めたり、好きで風俗で働いてる人に対して「いやいや、そんな事言っても本当は嫌なんでしょ?もっと良い仕事紹介してあげるよ」みたいな事を言ったり、古くは宗主国がその植民地に住む「遅れた」住民を導くために政治制度に介入したり、例を挙げると枚挙に暇がありません。まぁ、パターナリズムにはハードなものからソフトなものまで存在するので、それ自体が本質的に良いか悪いかについては脇に置きます。

しかしですね、個人的にパターナリズムって嫌いなんですよ。どうしても「余計なお世話じゃん」って思ってしまうんですよね。俺は自己決定権って凄い大切だと思っていて、それには(他人に迷惑をかけない範囲での)愚行権も含まれると思ってます。

そんなスタンスなので、パターナリズムを振りかざされたり、何処かで振りかざしてる人を見ると「うわぁ…」と辟易してしまうんです。

③あいりん地区で猛省した話

やっと本題にきたよ。言ってみれば枕と①と②はイントロとAメロとBメロみたいなもんですからね。やっとサビです。出来るだけ簡潔に書こうと思います。

あいりん地区に滞在を始めてから朝か晩に散歩をしてるんですが、その時にボロボロの服を着てゴミ箱を漁ってる人や高架下で寝てる人、お酒を片手に虚ろな目で徘徊してる人とかを見た時にふと「なんか可哀想だな」って思ってしまったんですよ。

つまり、無自覚な内に彼等を「可哀想で救われるべき存在」だと判断していたんですね。仮に彼等と対話したとして「俺は望んでこの生活を選んだんだから余計な助けは要らねぇよ」って言われたとしても「いやいや、そうは言っても本当はこの生活から抜け出したいんじゃないの」とか「プライドが邪魔して助けを求められないんじゃないのかな」みたいな台詞が頭をよぎりそうだなと。

これって普通に失礼じゃないですか。失礼だし、まさに俺が嫌いなパターナリズムそのものじゃないですか。その瞬間に猛省すると共にとても自分が怖かったんですよ。

「自分がやられて嫌な事は相手にはしない」って単純で簡単な事に思えるけど、時々自己反省をしないと無自覚にやってしまうかもしれないと思って、恐怖を覚えつつ夜な夜な猛省しました。殴る蹴る、罵倒するとかは論外だけど、例えば「飲み会でダラダラと無意味な説教をする」とか「根拠なく若者を批判する」とか、パターナリズムに限らず「自分は絶対にやらないだろう」と思う事でも、何かにつけて自己反省って大切だなぁと思いました。

 

それではまた次回のブログでお会いしましょう。