ぢるぢるだいありーずおぶざでっど

女性向け風俗キャスト兼売り専ボーイのブログ

「本当は真面目なんかじゃない」という主張について

ここ最近、「本当は真面目なんかじゃないのに、人前では真面目に振舞ってしまって本当の自分が出せない」みたいな悩みというかちょっとした愚痴を幾つか聞いた。その時には「それは真面目じゃないんじゃなくて、『本当に真面目な人』だから人前では真面目に振舞ってるんじゃないのかな」的な話をしてた気がする。仮に本当に不真面目だったら人前だろうが何だろうが、真面目には振舞わないだろうと単純に思ったからだ。

でも、しばらく経つと、この考え方は問いのほんの一部しか見ていない気がしてきた。そこで「真面目」の意味を調べると「 真剣な顔つきであること。誠実であること。また、そのようなさま。」と出てきた。これは大きく2つのグループ、「真剣な顔つき、そのようなさま」と「誠実であること」に分けられる。これは本人の「外面(真剣な顔つき、そのようなさま)」と「内面(誠実であること)」に当たる。

となると、俺が最初に書いた「真面目だから真面目に振舞う」とは全く別の可能性が浮上してくる。「誠実」ってのは「真心があって偽りがない」ことなので、「自分を偽って真面目に振舞う」のは誠実ではない訳だ。そうすると「『本当に真面目じゃない』から、自分を偽って人前では真面目に振舞っている」という答えも出てくる。

これは「真面目さ」を考える際に外面と内面のどちらを判断基準にするか、何と言うか恥の文化か罪の文化の違いみたいな所があるので、ここまで書いといてアレだがどっちが正しいってことも無いと思う。そもそも、この悩みにおいては実際に真面目かどうかなんて大した問題じゃないだろう。

悩みの根幹にあるのは、(良くも悪くも)自分の内面に目を向けすぎた副産物として何処からともなく手を振っている「本当の自分」の方じゃないか。「本当の自分」とはなんだろうか。「理想の自分」や「本来あるべき自分」と言い換えもできるだろうが、実体は無く、詳細までは掴み切れない。「本当(理想)の自分像」を持つのは素晴らしいとされるケースが多いけど、判然としないそれに目を向けすぎて囚われてしまうのはある種の「呪い」を抱え込むようなもんなんじゃないか。

何らかの方法で理想的な「本当の自分」になれれば呪いは解けるだろう。でも、世界も自分も刻一刻と変化するなかで、果たしてそんなことが原理的に可能なのだろうか。それは夜中にヒョーヒョーと鳴く声だけを頼りに鵺を捕まえに行くくらい現実離れして見えるのだ。

それよりも、自分の内面から手を振っている「本当の自分」に向けた目を少し外側に向けてしまえば良いんじゃないか。そうすれば徐々に「本当の自分」なんて呪いじみたものから距離を置けて「今の自分」にも目が向くことで、「今どうしたいか」にもフォーカスできるんじゃないかなとか思ったりした。