ぢるぢるだいありーずおぶざでっど

女性向け風俗キャスト兼売り専ボーイのブログ

自分を好きになる必要はあるのか問題

「自分を好きになる方法」「自己肯定感を高めましょう」「自己受容しましょう」等々、ここ最近はSNSやメディアではこの手の話題を目にすることがとても多いじゃないですか。

それらの主張って一見するとポジティブだし「そりゃそうだわな」と思わせる言葉が並んでますよね。ただ、よくよく考えると構造として違和感があるというか、無批判に受け入れるには少し引っ掛かりがあったのでこの文章を書いてます。

まず初めに、上に書いた「自分を好きになる」等々の主張ってのは個人が発するある種の考え方やドグマ、コマーシャルみたいなもんだと思います。つまり、「自分を好きになった方が幸せだし生きやすくなるから、そのための方法やらをお伝えします。頑張りましょう」ってことです。その主張自体は特に悪いとも思わないし、誰かを貶めようとする意図も無いでしょう。

ただ、それは「整形すれば/痩せれば/高学歴なら/金持ちなら/結婚すれば/英語が達者なら幸せになるので、それに向かって頑張りましょう」ってのと構造的に同じじゃないですか。これは、「『現状を変えて何かの状態になれば幸せになれる』、という主張を信じる」、つまり世界における幸/不幸の判断基準を外部に明け渡す構造になる訳です。

ひとつ前に戻って、自己肯定感が高まった結果として幸せになって生き易くなる人は多いと思うのでそれはそれとして全く問題ないけど、その状態ってのは自己肯定感が何かの拍子に低くなったらまた不幸せになる可能性が大いに高いじゃないですか。幸せでいる為には常に自己肯定感が高い状態をキープしないといけないですよね。

世界のどこかに幸不幸の境目みたいなのがあると仮定して、さらにそこへ何処かから借りてきた基準を当てはめ続ける生き方ってけっこう大変だと思います。

自分が嫌いだって自己肯定感が低くたって別に良いんじゃないんですかね。それも全部ひっくるめて、世界と自分の実存の関係を一度引き受けつつ、生きることについて考え抜いた方が無責任なドグマとかコマーシャルに対する免疫もつく気がします。結局のところ、人生の折り合いってのは自分の主体性でもって何とかするしかない訳だから、そこには自分で選び取ったような本質をポンと置けばよろしいのではないかしらと。

自分を好きで、それで幸せな人生を送っている人が無自覚に発言する「自分を愛した方が良い」ってのは、ラーメン好きな人が「ここのラーメン美味しいから君も食べなよ」って言うのと余り変わらない訳です。

ナチュラルボーンで自分が好きなら良いんだろうけど、誰かに言われた結果として「自分を好きにならなきゃ」となるのは逆に生きづらくなりそうだから、自分の判断基準とか考え方は外部に明け渡し過ぎない方がいいんじゃないかと最近は思ってます。

「本当は真面目なんかじゃない」という主張について

ここ最近、「本当は真面目なんかじゃないのに、人前では真面目に振舞ってしまって本当の自分が出せない」みたいな悩みというかちょっとした愚痴を幾つか聞いた。その時には「それは真面目じゃないんじゃなくて、『本当に真面目な人』だから人前では真面目に振舞ってるんじゃないのかな」的な話をしてた気がする。仮に本当に不真面目だったら人前だろうが何だろうが、真面目には振舞わないだろうと単純に思ったからだ。

でも、しばらく経つと、この考え方は問いのほんの一部しか見ていない気がしてきた。そこで「真面目」の意味を調べると「 真剣な顔つきであること。誠実であること。また、そのようなさま。」と出てきた。これは大きく2つのグループ、「真剣な顔つき、そのようなさま」と「誠実であること」に分けられる。これは本人の「外面(真剣な顔つき、そのようなさま)」と「内面(誠実であること)」に当たる。

となると、俺が最初に書いた「真面目だから真面目に振舞う」とは全く別の可能性が浮上してくる。「誠実」ってのは「真心があって偽りがない」ことなので、「自分を偽って真面目に振舞う」のは誠実ではない訳だ。そうすると「『本当に真面目じゃない』から、自分を偽って人前では真面目に振舞っている」という答えも出てくる。

これは「真面目さ」を考える際に外面と内面のどちらを判断基準にするか、何と言うか恥の文化か罪の文化の違いみたいな所があるので、ここまで書いといてアレだがどっちが正しいってことも無いと思う。そもそも、この悩みにおいては実際に真面目かどうかなんて大した問題じゃないだろう。

悩みの根幹にあるのは、(良くも悪くも)自分の内面に目を向けすぎた副産物として何処からともなく手を振っている「本当の自分」の方じゃないか。「本当の自分」とはなんだろうか。「理想の自分」や「本来あるべき自分」と言い換えもできるだろうが、実体は無く、詳細までは掴み切れない。「本当(理想)の自分像」を持つのは素晴らしいとされるケースが多いけど、判然としないそれに目を向けすぎて囚われてしまうのはある種の「呪い」を抱え込むようなもんなんじゃないか。

何らかの方法で理想的な「本当の自分」になれれば呪いは解けるだろう。でも、世界も自分も刻一刻と変化するなかで、果たしてそんなことが原理的に可能なのだろうか。それは夜中にヒョーヒョーと鳴く声だけを頼りに鵺を捕まえに行くくらい現実離れして見えるのだ。

それよりも、自分の内面から手を振っている「本当の自分」に向けた目を少し外側に向けてしまえば良いんじゃないか。そうすれば徐々に「本当の自分」なんて呪いじみたものから距離を置けて「今の自分」にも目が向くことで、「今どうしたいか」にもフォーカスできるんじゃないかなとか思ったりした。

「自分を持ってる」とか「持ってない」とか

会話の中で、「あの人は自分を持ってるよね」とか「私は自分を持ってないんです」とかって時々出てくるじゃないですか。つい先日も外食してたら「あの子はちゃんと自分を持ってるよね」みたいな会話が聞こえてきたんですよ。その日の夜に布団の中で「自分を持ってる/持ってない人」ってそもそも何なんだろうかと考えたら「結局のところその手の表現って相対的過ぎてあんまり意味なくねぇか」と思ってしまったので、その理由を書きます。

初めに、「自分を持ってる」の類語を調べると、「芯の通った」「信念がある」「周りに流されない」みたいな言葉が出てきました。ざっくりまとめると、「自分の考えや主義主張が確立していて、それを言動に表すことが出来る人」って感じですかね。逆に「自分を持ってない」ってのは「自分の考えや主義主張が確立しておらず、言動に表すことが出来ない人」になるのかなと。つまり付和雷同っぽい人を指す言葉になると思います。

それらを踏まえて、「自分を持ってる/持ってない人」について考えを巡らせると、よく分かんなくなってくる訳です。例えば何かの原理主義者とか、強固に○○主義を推し進めようとするタイプの人が居たとして、その手の人って一部の層からは「あの人ってめっちゃ自分を持ってるよね」って評価されますよね。だってどんな状況でも自分のイデオロギーを曲げないで主張や行動が出来るから。

でもそれって一方では特定のイデオロギーを強固に内面化した結果として、「そのイデオロギーから発せられるであろう言葉」が発言の大半を占めてるとも取れるから、そこにあるのは自分じゃなくてそのイデオロギーなんじゃないかとも思うのです。つまり、言動的には自分を持っているようでいて、実は何かを憑依させてる状態で、その何かを取り除いたら特に意見がないみたいな。

そんで、一般的に「自分を持ってない」と言われる人だって自分の考え自体は持ってるじゃないですか。例えば場の雰囲気に流されて意見がコロコロ変わる人や、自分の意見を上手く言えない人だって、飽くまでも自分で考えた結果(←ここ重要)、その行為に至ってるんだから、別に「自分を持っていない」訳でもないんじゃないかと思うのです。そもそも、「何も考えてない人」なんて脳死状態の人を除いたら居ないだろうし、発言や行動みたいな、その人の内面の発露の一部を判断材料にして「自分を持ってる/持ってない」なんて判断は割と当てにならないんじゃないかと思います。

AさんはBさんにとって「自分を持ってる人」だとしても、Cさんにとっては「自分を持ってない人」かもしれないし、Dさんにとっては「思考パターンがいつも同じの石頭」かもしれないから、その手の評価ってのは本質的なものじゃなくて、一面的かつ相対的じゃないかしらと。

それに「自分を持ってる/持ってない」の観点に囚われすぎると、「自分を持ってる自分」を演出しようとして、結果的に生きづらくなりそうな気がする。どうあがいても人は自分以外にはなれないし、その時点で自分を「持ってる」も「持ってない」も余り意味をなさないでしょう。

ここ最近はそんなことを考えながら生活してました。

対人関係で気を付けてること

ここ1ヵ月の間に取材的なのを2回受けまして、その時に「お客さんと一緒に居る時に何を気を付けてますか?」みたいな質問をどちらの取材でも訊かれたんですよ。その質問を受けてから、「そういえば俺は何を一番気を付けてるのかしら」と考えるようになって、その時にはパッと返答できずに心の中で引っかかっていた答えが出たのでザックリとまとめてみました。

結論から書くと、「『相手がどんな世界に生きてるか』とか『相手が世界をどう理解しているか(若しくは世界との距離感)』に対してある程度の想像力を働かせる。その上でそれらを相手の実存(≒相手の存在自体)とは切り離して考えて、相手の実存そのものは否定しない」って感じです。

文字にするとなんだか回りくどいから例を出して説明します。先ずは前半の「『相手がどんな〜中略〜想像力を働かせる。」の部分です。

例えば、「アタシ在日とか嫌いだしコロナは世界の富裕層が人口削減の為に仕組んだと思ってるしワクチン打ったら5G電波で操られるしドナルドトランプしか勝たん」ってタイプの人が居たとしましょう。

ある程度(←ここ重要)の想像力を働かせると、彼女は「在日の人はきっと良くない存在で、富裕層は何か天変地異レベルの影響力を持っていて、トランプは救世主足りえる」という世界に住んでいて、さらにこの世界には何処か因果のような作用が漂っていると理解しているように見受けられます。ちなみに「ある程度」を強調したのは、あまりにも想像力を逞しくすると、的外れな決めつけになっちゃう気がするからです。あくまでも「ある程度」です。これが前半の部分です。

次に、 そんな彼女の世界観は俺の世界観とは全く異なるので、きっと会話をしているうちに意見の相違が目立ってくるでしょう。ただ、そこでは変に同調したり話をはぐらかしたりはせずに、普通に「俺はコレコレこういう理由でそう思わないんだけど」みたいなことは普通に言います。反対意見は表明するし、特にそこで忖度したりは全くしないです。

その際に気を付けてるのが、後半部分の「その上で〜中略〜実存そのものは否定しない」って所です。つまり、「その主張をしてる『あなた』が間違ってる(頭おかしい/ダメだ/トンチキだ/etc...)よ」とは言わないって意味ですね。俺が反論や違和感を表明するのは飽くまでも「主張の内容」であって、「あなたそのもの」ではないです。

「実存を否定しない」ってとても大切というか、コミュニケーションを取る上で最低限の礼儀だと思っているので俺は平常運転でそんな感じなのですが、特にネット空間なんかでは相手の主張を乗り越えてその実存までも毀損するような表現って多いじゃないですか。

例えば「(先述したようなネトウヨっぽい主張をしている)○○さんってクソだよな」って表現があったとして、俺としては議論の対象は「主張の内容」であって、○○さんじゃないと思うんですよ。最終的にその個人がクソ人間かどうかなんて超包括的な判断を下せる人なんて恐らく居ない訳です。

そういった観点から、「誰彼の主張」と「誰彼の実存(≒その人の存在自体)」は分けて考えるべきだと思うのです。勿論、俺も人間なので主義主張の好き嫌いはあるけど、その主義主張を乗り越えて一直線に相手の実存を否定する気にはなれないんです。だって相手の存在自体を否定する判断材料を持ってないから。例えばネトウヨだろうが性差別主義者だろうが何だろうが取り敢えず主張と実存を切り離して、「何故にこの人はこういった主張をするのかしら。そしてその『主張に対して』はどうやって自分の意見を述べようかしら」と考えるのが肝要かなぁと。

まぁ早い話が、 相手の意見とか考え方、主義主張と真っ向から対立したり、場合によっては否定することはあるけど、そこから飛躍して相手の存在自体は余程のことがない限り否定しませんよって事です。これはお客さんと一緒に居る時とか関係なしに、自分の対人関係全てに共通している考え方なので、自分にとっては馴染みすぎていて取材のときにはパッと答えられなかったです。とは言え、「何を気を付けてますか?」って訊かれたら、こんなことを気を付けてるぜって話でした。

終わり。

風俗の研修って難しいですね

女性向け風俗業界に入って3年と少しが経ちまして、最近は新しくスパホワイトに入ってくる人に向けた研修なんかも請け負ったりしています。資料を作るにあたっては、「仮に自分が研修を受けるとしたらどんな事を知りたいかな」って所に要点を置けるように、頭を捻ってます。

そんな感じで資料を作って研修に臨んでいるのですが、毎回思うのですよ。「研修ってえげつなく難しいですやん」って。いやね、お店のルールとか実務的なことの説明は簡単なのですが、それ以外の風俗における核心的な事柄って考えれば考えるほど難しくてドツボに嵌るんですよね。

俺が思う「風俗研修の難しさの根源」みたいなのって大きく分けて2つあって、それはこんな感じです。

①風俗には普遍的な原理原則が無い

②俺も確たる正解が分かっていない

先ずは①についてです。

この地球には「人間」って沢山いるじゃないですか。そんで、十人十色って言葉もある通り、彼・彼女らの行動様式や趣味趣向って様々ですよね。つまり、俺は生物としての「ヒト」を想定した場合の普遍的な原理原則(絶食したら死ぬとか首を切断したら出血するとか)ってのはあるけど、文化的なバックグラウンドに投げ込まれた人間を何某かの原理原則に当てはめて語るってのは到底不可能だと思ってるんです。

例えば、俺がAさんに「今日は暑いですね」って言ったときに、Aさんが俺の言葉をどのように受け取って解釈したかなんて到底理解不可能な訳です。俺にとっての「今日」とAさんにとっての「今日」、俺にとっての「暑い」、Aさんにとっての「暑い」ってのは完全に一致することもなく、「何となくの物事に対する差異のやりとり」の中でコミュニケーションが出来てるつもりになってるだけじゃないですか。そもそも俺だって完璧に言語を理解して発話してないし、とても不確定なやり取りをし続けてる訳です。

 そんな人間(キャスト)と人間(お客さん)がコミュニケーションを取りながら過ごす時間について、「普遍的な原理原則なんて無いですやん」と思うのです。例えば、「玄関の靴を揃える」とか「部屋の温度に気を付ける」とか、そんな簡単な事は誰でも出来るけど、そこから先のコミュニケーションに正解なんてないじゃないですか。

なので、基本的なマッサージ等々以外の研修内容は割と(こうした方が良いんじゃないかな的な)抽象的な内容になります。現状ではその抽象的な事項を自分の中に落とし込んで個別具体的な行動に変えてもらうしか方法がなさそうなんですね。逆に「女性に対してはこうすれば大丈夫!!」とか「相手を虜にする方法!!」とかって、人間を画一化した存在と想定しすぎていて、言葉を選ばずに言えば傲慢だなと思うのです。出来ることと言えば、「今相手は何考えてんのかなぁ」とか「どんな人なのかなぁ」とか「どんな事が好きなのかしら」とかを考えることだと思ってます。

そんな感じで、風俗って普遍的な原理原則はないよなぁと思っている今日この頃です。

次に②についてです。

自分が大学受験とか公務員試験の勉強をしてた時の事を思い返すと、「難しいし大変だけど単純だったな」って印象があります。多くの事を覚えなきゃいけないし、毎日何時間も勉強しないといけないし確かに大変だけど、「やるべきこと」が決まっていた分、迷うことはなかったなと。つまり、「目的地が示された地図を持っていて道も分かってるから、後は自分で進むだけ」な状態だったんです。ただ、それは自分の家庭環境が特に荒れてなかったという大きなアドバンテージもあったとは思います。

転じて風俗業界で働き始めた当初から今までは一貫して「自分で設定した目的地に向かうために自分で地図を描いて、そこへの道も自分で作る」みたいなテンションで日々生きています。そんで厄介なのが、その目的地も地図も道も正解なのかは自分でもよく分からないって点です。石の上にも三年的なグルーヴで、「こうしたら良い…のか…?」とか「もしかしたらこっちの方が良いかもしれない…気がする」くらいは分かるものの、結局確信はないまま五里霧中状態です。

基本的にそんな不確かな状態の中で試行錯誤するのが嫌いじゃないので何とかなってるけど、①で言及した通り、普遍的な原理原則は無いと思ってるので風俗における「確たる正解」ってのは分かんないんですね。分からないことを飲み込みつつ、よりベターだと思われる方向に少しずつ進むって感じです。

まぁ、そんな感じの考え方で生きてるので、研修で誰かに何かを教えるなんておこがましいぜとか思いつつ、日々進む方向を考えてます。

おわり。

性風俗が「本質的に不健全」とは何ぞや

ニュース等々で知ってる人も多いかも知れませんが、性風俗事業者はコロナ禍での給付金(持続化給付金とか)の一部で不給付対象になってるんですね。そこで、とあるデリヘル事業者が「それはおかしいでしょ」ってことで国を相手取って不給付取り消しを求める訴訟を起こしてるんです。ちなみに裁判の概要や資料は下記リンクから確認できます。

「セックスワークにも給付金を」訴訟 |公共訴訟のCALL4(コールフォー)

そんで裁判資料を読んでいて気になったのが、被告(国)側は訴状に対する答弁書の中で「・・・性風俗関連特殊営業(異性の客の性的好奇心に応じてその客に接触する役務を提供する営業のこと、括弧内は補足)は,性を売り物にする本質的に不健全な営業とされ,・・・(答弁書21頁より引用)」って書いてるんです。つまり、被告側のロジックとしては、「性風俗特殊営業は『本質的に不健全』なので、補助金の不給付に該当させることは合理的な区別であり、何ら不当な差別には当たらない」ってことだと思います。たぶん。

実際にこのまま不給付になるのかどうかは今後の裁判所の判断にも左右されるだろうから分らんけど、「本質的に不健全」ってどういう意味なのか知らんと思って、頭を捻っています。先ずは普通に辞書的な意味から考えてみましょう。

本質的→物事の根本的な性質にかかわるさま

不健全→心身がすこやかでないこと。事物の状態などがゆがんでいること。(共にWeblio辞書から引用)

だそうです。それを踏まえて捕捉しつつ無理やりつなげると、「日本国(この件では経産省)的には、異性の客の性的好奇心に応じてその客に接触する役務を提供する営業は、根本的な性質がすこやかでなく、その状態はゆがんでいると判断している」って意味になります。なるほど。これはどこか普遍的な原理の皮を被った感想っぽい印象を受けます。

もちろん、何かに対して感想を抱くことは至極自然なことだし、俺も毎日何かに対して感想は抱いてます。「ラーメン二郎を全マシして、それを完飲完食するのは本質的に不健全な行為だよなぁ」とか。ただ、それを普遍的な原理(全マシした二郎は完飲完食するな)にまで昇華させる手段って恐らく今の日本には構造的に存在しない気がします。

例えば、イスラム教のコーランには「豚の肉食うな」って書いてあるけど、「豚の肉を食べてはいけない理由」を(神無しに)論理的には説明出来ないじゃないですか。それは単純に「神様がそう言ってるから」であって、そこに疑問を挟む余地は無い訳です。一神教が根強い地域とか、超強権的な王が国を支配していた時代であれば、物事の健全/不健全の基準は神や王みたいな、ある種の超越した存在を担保にすることで十分に通用するけど、今の日本には国民総意の神とかある種の大きな物語なんてのは無い訳で、健全/不健全を公に判断する為の根本が抜け落ちてるんじゃないかと。

そんな状態で、「〇〇は不健全だからダメ」みたいな事をさも普遍的な原理のように主張しようとすると、その不健全性を証明するための根本となる何かには、非常に空虚な事物を持ってこないと成立しなくなっちゃいます。その結果として、「その主張は論理的には正しいけど、そもそも普遍的な原理かどうかは判断できないよね」みたいな宙ぶらりん状態に陥っちゃいます。

そんで、それを補助金の給付/不給付要件の根拠にしちゃうと、最終的に水掛け論になるじゃないですか。なので最悪、不給付にするならするで、「不健全」とか「社会通念」とか「国民の理解」とかじゃなく、膝を打つような別の理由で不給付にして欲しいなぁとか思ってます。「いやァ、そんな理由でダメだったらそりゃァしょうがない。これは一本取られましたな。ガハハハ!」みたいな。俺は全く思いつかないけど。

簡単にまとめると、現在の日本では、普遍的なレベルで「本質的に不健全」って状態を証明するのは構造的に凡そ不可能だろうし、それを根拠に給付/不給付の判断をするのは悪手なんじゃないかと思ってます。

それと、今回の訴訟の原告側は同業者という事もあって、密かに応援してます。そして訴訟が良い結果で終わることを祈ってます。

マイノリティを「受け入れる」という表現への違和感

ここ最近、ネット上でも何処でも所謂「マイノリティ」に関する言説ってとても増えたような気がします。一口にマイノリティと言っても、それは出自や宗教、性的指向性自認等々と多岐に渡るけど、兎にも角にも増えた気がするんですね。

そんな近頃なので、何かしらのマイノリティに対して自分の立場を表明する場面ってあるじゃないですか。それらの発言で、例えば「僕(私)はゲイ(トランス、在日、etc...)の人が周りにいても受け入れるよ」的な表現を目にするたびに、なーんか違和感があったんですよ。最初は自分でもよく分からない違和感だったけど、最近になってその理由が少し分かったのでここに書いておこうと思いました。

ちなみに、ここで書く「受け入れる」ってのは、何かしらのマイノリティが持つ属性や特性について、それらを概念そのものとして、また理解可能な現象として排除せずに自分の範疇に「受け入れる」って意味で使う場合についてです。なので、例えば「日本は難民を『受け入れる』」とか「我が社は何かの障害を持った人でも社員として『受け入れる』」みたいな、物理的に受け入れる使い方は別枠です。

さて、お話を違和感の方に戻します。自分の中で色々と考えをこねくり回した結果、以下の2つの理由が出てきたので、それぞれ説明します。

 

①悪意のないマジョリティ意識と権力関係

②ゆるやかな分断線

 

①悪意のないマジョリティ意識と権力関係について

人が何かを「受け入れる」って状態は何かを「受け入れる人」と「受け入れられる人」が存在して成り立つじゃないですか。そんで、こと属性に関する話だと、基本的に受け入れる側の人がマジョリティ側であるケースが圧倒的に多い訳です(例えば「シスヘテロ側(圧倒的多数派)がLGBT(少数派)を受け入れる」という表現とか)。

そして更に、この問題については受け入れる側が基本的な決定権を持ってる気がします。つまり、何かを「受け入れる」ということは、同時に「受け入れないでおく」ことも十分に可能であり、そこには目に見えない権力関係が横たわっているのかなと。まぁ、「受け入れられることを受け入れない」ってのもあるけど、それは二次的な話なので脇に置きます。

例えば「私はノンケだけどゲイの人も受け入れるよー」って表現には、「『私』という存在がマジョリティ側であり、受け入れる/受け入れないの判断を下せる権力者である」という構造が見え隠れしていて、俺はその辺に微かな違和感を持ったんだと思います。

もちろん、「受け入れる」的な表現に悪意や驕りみたいなのは無いんだろうけど、単純に俺が微かな違和感を持ったぜって話です。パンクが好きだからかもしれない。

 

②ゆるやかな分断線について

全人類で全ての分断を完璧に取っ払うとしたら、碇ゲンドウが夢見た人類補完計画を完遂するしか道はないのは分かってます。ちなみに俺は葛城ミサト派です。『シン・エヴァンゲリオン』での活躍も素晴らしかったです。

 閑話休題

前提として、目の前に(何かの尺度に当てはめたら)マイノリティと呼ばれる人が居た場合、その属性に関する客観的な知識は大切だと思います。本人に教えてもらったり、自分で調べたりして、例えば不用意に宗教的なタブーや何かを侵さないようにするのがベターかなと。

ただ、それとは別に、「彼はゲイだけど受け入れる」とか「彼女は敬虔なモルモン教徒だけど受け入れる」みたいに属性的な色眼鏡を通した上で見ちゃうと、彼(彼女)の人間性の手前でジャッジメントを1つ挟む事になるじゃないですか。基本的な属性にタグ付けされた色眼鏡なんて余り当てにならないし、それって彼(彼女)との間にゆるやかな分断線を引く結果になるだけなんじゃないかと思います。

 

俺がどことなく持っていた、「(何かのマイノリティ)を『受け入れる』」って表現に対する違和感の正体をまとめると、「そこには構造的にマジョリティ意識と権力関係が見え隠れしていて、更にその主体と客体の間に分断線を引いてしまう様な感じがするから」です。

まぁ別にこの考え方が正解でもないだろうし、「こいつはこんな風に考えてるのね」くらいに受け取ってもらえれば幸いです。