ぢるぢるだいありーずおぶざでっど

性感マッサージのセラピスト兼売り専ボーイのブログ

赤く塗りつぶす

山本直樹の『レッド』って漫画を読んでます。1970年前後の日本を舞台に革命を目指した青年達の物語が描かれていて、団体名こそ変わってますが実際に起こった連合赤軍事件を題材にした漫画ですね。  

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以前から連合赤軍事件には興味があって、書籍や映画なんかを時々チェックしていたので何となくの概要は把握してるのですが、山本直樹ファンということもあって遂に購入してしまいました。作品としてはやはり思った通り素晴らしいです。まだ最後までは読んでいないですが。

俺の山本直樹愛は別の機会に語るとして、連合赤軍関係の話って妙に惹きつけられるんですよね。あの事件って、(飽くまで俺の理解ですけど)革命への理想に燃えた若者達がその思想を余りに先鋭化させてしまったが故に組織諸共自壊していく物語じゃないですか。

その状況って何処となく今のインターネット界隈に似てるなぁと思うんですね。勿論、連合赤軍の様にゲバ棒ぶん回したり火炎瓶を投げたりまではしていないですけど。

ネット上で特定の主義主張を持って、それを積極的に発信したりシンパを募ったりしてる人っているじゃないですか。右とか左とか保守とかリベラルとかフェミニズムとかスピ系とかよく分からん風俗系とか。

そんで、それ自体は全然良いと思うんだけど、その主張方法が極端だったり先鋭化し過ぎてる人が居るなぁ思うんですよ。なんと言うか、「我々の主義主張に同調する者以外は全員殲滅すべき敵である」みたいな。さらに厄介だなぁと思うのが、それに加えて「対話はするけど反対意見は聞きません」的な態度が見え透いてる人も時々見かけるんです。

「我々以外は全員敵である」と「対話するけど反対意見は聞きません」って基準が合わさっちゃうと、相手としてはどうしようもなくなっちゃうじゃないですか。それこそ連合赤軍のように「対話に見せかけた総括」を迫る形になっちゃうんですよね。

特にSNSでは極端な主義主張は支持を(勿論不支持もだけど)得やすいから、そのまま突っ走ったら必然的にあさま山荘総括スタイルになっちゃうんだろうけど、自壊した連合赤軍みたいにならない様に歴史から学んだ方が良いんじゃないのと思った今日この頃です。

一応補足しておくけど、俺は「主義主張を発信するな」って言ってるんじゃなくて、「極端な意見を発信して、反対意見者は問答無用で全員潰す」的な思想ってどうなのよって事を言ってるだけなので悪しからず。

ちなみに山本直樹作品で好きなのは『BLUE』と『堀田』です。

 

それじゃあまた次回。

「自分を漢字一文字で表すとしたら?」って質問について

この手の質問って就活の面接等々で時々訊かれるじゃないですか。しかし例えば就活の場面だったら、外向きのと言うか採用されるにあたって有利に働く回答をすると思うんですね。ポジティブな内容とか言っちゃったりして。なので今回はこの質問に対して外向きではなく、素直に回答してみようって内容です。

先ず結論としては、自分を漢字一文字で表すと「空」だと思ってます。読みは「そら」じゃなくて「くう」、“Sky"ではなく”Vacant"の方です。

「いやいや、空っぽってどういうことやねん」って思う人が居るかも知れませんが、ちゃんと理由があるんですよ。「空」、これを何となく自覚し始めたのはここ最近なのですが、思い返すと結構昔からそんな感じだったなぁと思うのです。

つまり、俺は「様々な事物、特に倫理や道徳に対して確固たる主張やイデオロギーが特にない」んですね。例えば小中学生の頃の授業中なんかに先生から「○○君はこれについてどう思いますか?」って訊かれる場面があるじゃないですか。そんな時に結構な頻度で回答に困ってたんですよ。自分の主張が上手く言語化できないんじゃなくて特に主張が無いから。

勿論アレですよ。物事の好き嫌いはありますし、自分の意見はあるけど、「倫理観や道徳観、イデオロギー闘争でイマイチ熱くなれない」って意味ですからね。全てに対して主張が無い訳じゃないですよ。

閑話休題

なので、自分の(とりわけ道徳観や倫理観についての)主義主張を流暢に喋る同級生を見た時には「ほー、弁が立ってすげぇなぁ」とか思ってた記憶があります。それは大学生になっても余り変わらなかったのですが、流石にこのままだとヤバいのではと思い始め、何かを変えてくれるかもしれない希望を求めて文学や音楽を多く受容するに至りました。もちろん面白いし人生への刺激にもなるからってのが1番の動機だけど、自分の中に「ブレない1本の芯」をもたらしてくれるかもしれない淡い希望があったのは確かでした。恐らくこの世界を生きる上で、ある種の宗教観みたいなのを欲してたんでしょうね。

それこそ駅前で宗教の勧誘をされたら必ず付いて行って彼・彼女らの話を聞いたし、主張が強めな友人とは朝方まで議論をしたりする日々を過ごしてました。

そんな感じで音楽や文学を受容し、議論したり宗教家の話を聞いたり何なりして20代前半を過ごした訳ですが、「やっぱり俺は余り主義主張が無いのだな」って結論に至りました。しかしですね、ここで重要なのは、10代の頃に抱えてた「主義主張のない俺はヤバいのではないか?」って思いが無くなった点だと思います。一周回った上で主義主張が無い俺は言ってみればアレです、「俺2.0」にバージョンアップした訳ですよ。

「俺2.0」にバージョンアップされた後は卑屈になる事も無くなって、割と生活しやすくなりました。例えば、風俗業界って確固たる主義主張を持った人が結構居るのですが、昔だったら「うわー、凄いな、何か訊かれたらどうしよう、ぐぎぎぎ」とか思って尻尾を丸めてたでしょうが、今ならそんな事はないです。「なるほど、あなたの考えはそんな感じなんすね。俺は○○だと思います」って感じで対応できる様な気がします。相手のエクストリーム具合にもよりますが。

加えて、お客さんに限らず、対話をしている時に「言いたい事は言うし、主張は聞くけど相手の考え方は変えさせようとしない」って姿勢で居られるので特にストレスが無いです。つまり、「俺はこう思うよ」とか「こうした方が良いんじゃね?」みたいな事は言うのですが、「君は○○すべきだ!」とか「○○はダメだ!」の様な強い強制力を持った発言は余り言わないです。たぶん。相手は相手なりの思想やら行動原理で生きてるので、そこを変えさせようとは思わないんです。

まぁなんやかんや言うておりますが、俺は自分を漢字一文字で表すと「空」なんだろうなと思ってます。「俺2.0」的には「空2.0」ですけどね。この質問って就活の場面ではただの茶番になっちゃうケースが多いけど、改めて考えてみると結構面白いので時間があればやってみると自分と向き合う良い機会になるかもしれません。

そんじゃあまた次回。

あいりん地区で猛省した話

大阪・福岡出張企画の前半で大阪の通称あいりん地区に滞在しています。どうも皆さんこんにちは。

「このタイトル何やねん」って思ったそこの方、今からちゃんと3つに分けて説明するので暫しお待ちください。この通りです(^ν^)

 

①滞在場所をあいりん地区にした理由

パターナリズムについて

③あいりん地区で猛省した話

 

①滞在場所をあいりん地区にした理由

最初のきっかけは単純に交通の便が良くて宿が安かったからですね。大阪出張中だと主に梅田や難波、天王寺辺りのホテルに行く事が多いので、それらの場所へ徒歩や電車ですぐに移動できるあいりん地区って立地が良いんですよ。そんでもってあいりん地区には「ドヤ」と呼ばれる簡易宿泊施設が多くあって、おおよそ千円前後で泊まる事が出来ます。

しかし一方では、安価なドヤや寄せ場(日雇い労働の求人者と求職者が集まる場所)が多いことから路上生活者が多かったり、違法な闇市や薬物売買が行われていたり喧嘩が多かったりと決して治安が良いとは言えない地域となっています。

俺もそう言った事柄はニュース等で知ってはいたものの、何処か別の世界線の出来事の様に思っている節があったので、出張企画に合わせて現地に1週間ほど滞在してみようと思ったんですね。

パターナリズムについて

これについてはググればすぐに出るのですが、簡単に言うと「立場の強い者が、立場の弱い者の意思を問わずに(←ここ重要)、『これはお前ら(弱者)のためになるから』と勝手に干渉や介入すること」です。

例えば、親が「子供のためを思って」勝手に進路を決めたり、好きで風俗で働いてる人に対して「いやいや、そんな事言っても本当は嫌なんでしょ?もっと良い仕事紹介してあげるよ」みたいな事を言ったり、古くは宗主国がその植民地に住む「遅れた」住民を導くために政治制度に介入したり、例を挙げると枚挙に暇がありません。まぁ、パターナリズムにはハードなものからソフトなものまで存在するので、それ自体が本質的に良いか悪いかについては脇に置きます。

しかしですね、個人的にパターナリズムって嫌いなんですよ。どうしても「余計なお世話じゃん」って思ってしまうんですよね。俺は自己決定権って凄い大切だと思っていて、それには(他人に迷惑をかけない範囲での)愚行権も含まれると思ってます。

そんなスタンスなので、パターナリズムを振りかざされたり、何処かで振りかざしてる人を見ると「うわぁ…」と辟易してしまうんです。

③あいりん地区で猛省した話

やっと本題にきたよ。言ってみれば枕と①と②はイントロとAメロとBメロみたいなもんですからね。やっとサビです。出来るだけ簡潔に書こうと思います。

あいりん地区に滞在を始めてから朝か晩に散歩をしてるんですが、その時にボロボロの服を着てゴミ箱を漁ってる人や高架下で寝てる人、お酒を片手に虚ろな目で徘徊してる人とかを見た時にふと「なんか可哀想だな」って思ってしまったんですよ。

つまり、無自覚な内に彼等を「可哀想で救われるべき存在」だと判断していたんですね。仮に彼等と対話したとして「俺は望んでこの生活を選んだんだから余計な助けは要らねぇよ」って言われたとしても「いやいや、そうは言っても本当はこの生活から抜け出したいんじゃないの」とか「プライドが邪魔して助けを求められないんじゃないのかな」みたいな台詞が頭をよぎりそうだなと。

これって普通に失礼じゃないですか。失礼だし、まさに俺が嫌いなパターナリズムそのものじゃないですか。その瞬間に猛省すると共にとても自分が怖かったんですよ。

「自分がやられて嫌な事は相手にはしない」って単純で簡単な事に思えるけど、時々自己反省をしないと無自覚にやってしまうかもしれないと思って、恐怖を覚えつつ夜な夜な猛省しました。殴る蹴る、罵倒するとかは論外だけど、例えば「飲み会でダラダラと無意味な説教をする」とか「根拠なく若者を批判する」とか、パターナリズムに限らず「自分は絶対にやらないだろう」と思う事でも、何かにつけて自己反省って大切だなぁと思いました。

 

それではまた次回のブログでお会いしましょう。

「此処じゃない何処か」という病

「此処じゃない何処かへ行きたい」

はて、それについて明確に考え始めたのはいつ頃からだったか知らんと思いを巡らせている。高校生くらいまでは割と真っ当に生きていたかもしれない。いや、思い返すと小学生の時分に妖怪図鑑や月刊ムーでスクラップブックを作ったり、近所の山林にモンスターを探しに行ったりしていたので、その頃にはもう「此処じゃない何処か」に対する憧憬が芽生えていたのかもしれない。

そう言えば、小学校の理科の授業で電気について学習した時には「電気を身体に通せば何か凄い能力が芽生えるかもしれない」と思ってタコ足配線用のプラグを分解して、その金具の部分を手に持ったままコンセントに差し込んで失神しかけた事もあった。ちなみに恐ろしく痛かったし残念ながら凄い能力は開眼しなかった。

さて、そんなリテラシー皆無な少年も大学生となり、3〜4年生頃から「此処じゃない何処か」を明確に意識するようになった気がする。当時は東京の古本屋街である神保町付近に住んでいたので古今東西の書籍を安く手に入れる事が出来たし、所属していた文化論のゼミナールでは魔女のような風貌の指導教授の元で延々と議論出来る環境だったので、自分の考えを言葉にしたり常識を疑う事も学んだ。

その頃バイトをしていたコンビニの店長も風変わりな人物で、夜になるとバックルームに段ボールを敷いて寝たり、平然と酒を飲みながらレジを打ったりしていた。「そんなにお酒飲んでて大丈夫なんですか?」と訊いても「大丈夫大丈夫。それに俺が飲んでるのはウォッカだからウイスキーとか日本酒と違って匂わないんだよ。ヒヒヒ。」と笑っていた。しかし店長はお酒の匂いがしたし、店長が打った後のレジは現金の帳尻がよくズレていた。そしてバックルームには店長の友達(?)なる人物が頻繁に集って酒盛りをしており、俺も混ぜてもらっていたが未だに彼らが何者だったのかはわからない。と言うか数年前に店が潰れていて全ては闇の中である。

そんなこんなで俺の思想は20歳前後で徹底的にスクラップアンドビルドされ、「此処じゃない何処か」、まぁ有り体に言えば「ユートピア」って良いなぁと夢想する非生産的人間に成り下がった訳だ。そんなタイミングで普通に就職してしまったのがマズかったのかもしれない。就職先の役所では人間関係は良かったものの、息苦しさが次第に勝つようになっていった。「議論はするが、その前提についての議論はダメ」とか「空気や雰囲気を重んじる」等々、「此処じゃない何処か」について考えるのが好きな俺にとっては悪い意味でのダルい日々が続いていった。

物理的に無理であっても精神的に「此処じゃない何処か」へ行かないと発狂してしまうと思った俺はビートニクやヒッピー、デカダンスの諸先輩方に習って色々と試してみることにした。

マリ◯ンが良いと聞けば麻の実を買ってきたし、ペヨ◯テは色々観れると聞けば輸入したし、ブ◯ンやリ◯カはチルアウト系と聞けばドラッグストアにも行った。オランダのアムステルダムは法的にアツいとも噂で聞いたので適当に理由をでっち上げて現地に訪れた。

幾つかは効いたし、幾つかはダメだった。それに、一時的な逃避が可能なだけで根本的な解決策にはなり得ない事も学んだ。それでも「此処じゃない何処か」を求めずにはいられなかった。何と言うか、一種の病なのかもしれない。

精神世界に継続的なユートピアを求めることは恐らく難しいと悟った俺は、現実世界でなんとか実現出来ないか知らんと思うようになった。勿論だが完璧な回答は無いし、有ったらとっくに試している。そしてそもそも「ユートピア(理想郷)」は現実世界には存在しないからユートピア命名されている訳で、「現実世界で(ユートピアを)実現する」という表現は矛盾している。

閑話休題

暫定的な案としては、「世界の仕組みに敢えて乗ること」で、目下お試し中である。仕組みに「従う」ではなく「敢えて乗る」点が重要で、飽くまでも自分は自由でありいつでも半旗を翻せる存在である事を意識するのが肝要と思っている。

世界なんて一朝一夕で変わるもんでもないし、都合の良い革命が起こる可能性も極めて低い。であれば、その世界の中でトリックスター然として行動すれば世界への眼差しが変わってくるのではと目論んでいるのだ。数年も経てば考え方も変わるのだろうけど、今現在はこんな事を考えている。

「此処じゃない何処か」に囚われた人間として。

風俗の従業員を「セラピスト」と呼ぶ事の違和感について

女性向け風俗業界って、所属する従業員を「セラピスト」って表現するケースが多いじゃないですか。勿論その呼称を用いる事自体は違法ではいので御仁方々が勝手に使用すればよろしいと思うのですが、この業界に入った当初から「セラピスト」という単語に何処か違和感があったんですよ。

初めの頃は「なんかモヤっとするなぁ」くらいにしか考えてなかったのですが、ここ最近になってそのモヤモヤの理由が少し言語化できたので、ここに書いていこうと思います。

本題に入る前に一応名言しておきますが、これは単純に俺のイデオロギーの表明であって、さらに「セラピストと名乗るな」と言ってる訳ではないのでそこんとこよろしくお願いします。現代ネット社会に跳梁跋扈する、感情的な批判で鬼の首を取ったような態度を取るリベラル自警団的な輩は近日中に豚に食われると思います。

さて、先ずは「セラピスト」の辞書的な意味を調べてみると下記のような結果になりました。

セラピスト→社会復帰のための療法を専門に行う人。療法士。治療士。(出典:三省堂 大辞林 第3版)

ついでに「療法」と「治療」についても調べてみました。(出典は上記と同じ)

療法→病気のなおし方。治療の方法。 

治療→病気をなおすこと。治療。 

これから分かる通り、本来「セラピスト」とは特定の症状や状態からの治療者や救済者的なイメージを包摂する単語になっています。ここまでは辞書を引けば誰でも到達出来るし、特段の異論も無いかと思います。

ここからが本題なのですが、俺はこの「セラピスト」という単語を風俗店の従業員に当てはめる事には明確に違和感があるんです。繰り返しますが、これは俺の風俗に対するイデオロギーから導き出される答えなので、誰かに押し付けたり、何かをこき下ろしたい主張ではないからな。横浜家系ラーメンか二郎系ラーメンのどっちが好きか議論と同じくらいの地平に立ってると思ってください。ちなみに俺はトムヤムクンヌードルが好きです。さて、外堀をしっかりと埋めたところでその理由について書こうと思いますが、大きく分けると以下の2つになります。

性風俗業界は性的欲求を一時的に満たしたり、非日常を楽しむ場だと思っているから。

②「セラピスト」という単語が持つ治療的、救済的なイメージを求めて来たお客さんとのミスマッチが生む悲劇を避けたいから。

先ずは①についてです。

俺は風俗業界ってエンタメみたいなもんで、性欲を満たしたり、従業員との非日常的な空間を楽しんだりする事が先ず一義的に有ると思ってます。勿論そこには、頭では理解しているけれども割り切れない感情や罪悪感、金銭を介在させる後ろめたさ等々の様々な心の動きがあるでしょう。でも、それらを割り切れないまま心に内包して楽しむ様は正に「粋」だなぁと思うのです。

相手は1人の人間なので、全てを完璧に割り切って綺麗さっぱり遊ぶってのは場合によっては難しい事が多いかもしれません。言葉で「割り切る」と言うのは簡単ですが、実際にはそう簡単でない事は俺も分かります。それでも、その割り切れなさ等の不確定な感情と向き合いながら楽しむのが風俗だと思ってます。玉虫色の解答なんて無いでしょう。

と、まぁ俺は風俗をそんな感じで捉えているので、そこの従業員を「セラピスト」と呼ぶのには違和感があるんですよ。

だって風俗の本質はセラピーじゃないと思ってるから。臨床心理士とか理学療法士をセラピストって呼ぶのは理にかなってると思いますよ。それらは明確に治療や社会復帰に携わる分野なので、腹落ちします。ですが、風俗の従業員を「セラピスト」と呼ぶのは流石に言葉の意味を拡大解釈し過ぎだし、次の理由で書くミスマッチの根源になってしまうと思います。

次に②についてです。

風俗の本質はセラピーではないと書きましたが、副次的にセラピー的な要素がある事や、その側面を求めて利用する人も全く否定しません。実際に、「男性が苦手だったけど少し受け入れられるようになった」とか「性に対してネガティブなイメージを持ってたけど、考え方が変わった」等の嬉しい感想をいただく場面も多いです。

ですが、それは専門的な知識や手法に基づいた結果ではないので、俺との相性がたまたま良かっただけだと考えられます。本当にそれ以上でもそれ以下でもないんです。

それにも関わらず、例えば女性向け風俗業界がセラピー的な側面を匂わせて集客をしていったらどうなるかって火を見るよりも明らかじゃないですか?

それは「救われたかったけど救われなかった人」が続出する結果になるんですよ。風俗の従業員は治療の専門家ではないので、結果的に人を救う事はあっても、それを目的に接客する事はほぼ不可能だと思います。医療系の本業と掛け持ちしてる人は別かもしれませんが。

「楽しみたかったけど楽しめなかった人」に対しては謝罪や返金で対応は出来るでしょうし、そもそもお客さん側も「期待外れだったけどまぁしょうがないか」くらいで済ますかもしれません。ですが、「救われたかったけど救われなかった人」に対しては謝罪や返金では埋め合わせなんか出来ない訳ですよ。

そもそも、「楽しめなかった」と「救われなかった」の間には天と地ほどの差が鎮座していて、俺は正直言って後者の状態に陥った人にかけるべき言葉を持っていないです。業界やら店やらが高尚で素晴らしいセラピー的な大風呂敷を広げるのは勝手だと思うけど、救われなかった人達の人生に対して責任なんて取り切れないでしょう。

だったら最初からセラピー的な雰囲気ではなく広い意味でのエンタメ方向に舵を切っておけば、従業員とお客さんの「救われなかった」的な悲劇的なミスマッチは減ると思います。そういった観点からも、従業員を「セラピスト」と呼ぶ事には違和感があります。

まぁ長々と講釈垂れてますが、俺は早い話が風俗の本質はセラピーではなくエンタメだと思っていて、であれば従業員の呼称は「セラピスト」ではなく「キャスト」とかの方がお客さんとのミスマッチは減るし、そもそもセラピーの枠外である風俗店の従業員を「セラピスト」と呼ぶのは物事の本質を覆い隠して印象だけ良くする欺瞞じゃねぇのと感じてしまう訳です。

そんな感じの理由で、俺は風俗店の従業員を「セラピスト」と呼ぶ事に違和感があるんだぜって話です。

この主張には反対意見や気分を害する人も居ると思いますが、戦後日本から受け継がれた言論の自由のもとで俺の意見を書いてます。なので逆に批判や反対意見は聞きますし、議論する事も吝かではありません。

長々とした文章を読んでくださって有難う御座いました。アデュー。

時間停止物AVに物申す

AVのジャンルで時間停止物があるのって知ってます?

ざっくり説明すると、主人公(殆どは男優)以外の時間が止まっている空間で、その主人公が静止している女優等々に好き勝手イタズラしたりセックスする作品です。しかしですね、某巨大掲示板から得た情報によると、あの手の作品の99%は偽物、つまり実際には時間が止まってないらしいんですよ。

これだけコンプライアンスエビデンスが重要視される社会において、その99%が偽物である作品群ってのは如何なものかと思います。「悪貨は良貨を駆逐する」って言葉もある通り、このままでは残された1%の良貨までも淘汰されてしまうかもしれません。

そこでですね、微力ながらもアダルト業界の力になりたいと思ったので、俺なりに時間停止物AVを撮影する方法を考えてみました。以下にはヘーゲルも腰を抜かすほどの思弁的弁証法により捻り出したエポックメイキングでファビュラスなアイデアを記述します。刮目せよ。

手前味噌ですけど、「時間停止装置」みたいに非現実的なデバイスは存在しないことを認めましょう。断言しますが、「時間停止装置」又はこれに類する何かが出てくる時間停止物AVは100%偽物です。現代の科学力でその様なデバイスを作成する事は不可能ですし、そもそも「時間が停止した空間で撮影する」という事象は矛盾しています。

そこで俺が提唱する方法はコレです↓↓

ブラックホールを利用する」

いいですか?原理的に考えてこれ以外の方法はほぼあり得ないんですよ。順を追って説明しましょう。

アインシュタインが発表した「一般特殊相対性理論」によると、時間は絶対的なものではなくて弾力性を有しています。そして、極度に重力が強い場所では時間が遅れます。つまり、極度に重力が強い場所(≒ブラックホール)にある事物は、遠くから見るとその動きが止まって見えるんですね。それを踏まえた上で話を進めますが、ここからがマグマなんです。

先ずは撮影者、男優(条件あり、後述します)、女優の3人でスペースシャトルに乗ってブラックホールの近くまで行きます。そして、撮影者を機内に残して男優と女優がブラックホールに向かいます。徐々にブラックホールの中(特異点)へ向かっていく2人ですが、ある一定の距離まで近づくと撮影者から見た2人の動きは止まって見えます。ちなみに、この一定の距離を「シュワルツシルト半径」と呼び、この半径に入った事物は、光でさえも脱出不可能と言われています。つまり、ブラックホールの大きさはシュワルツシルト半径で表すことが出来るんですね。

2人の動きが止まったら撮影者はカメラを回し始める訳ですが、そのままだとただの静止画になってしまいますよね。そこで、先ほど男優に条件有りと書いた理由が明らかになります。察しの良い方ならもう薄々気付いてるかもしれませんが、男優は「すごい反重力作用を持った人」じゃないとダメなんです。

男優はシュワルツシルト半径に入ったら反重力作用を発揮して、自分を地球と同じくらいの良い塩梅の重力に戻して女優とセックスをします。するとどうでしょう、撮影者から見ると、女優の時間は止まって、男優の時間は地球と同じように流れている筈です。その様子を撮影すれば、時間停止物AVが出来上がるって寸法です。女優が男優を攻める痴女系AVを撮りたい場合は、役割を逆転させれば解決します。つまり、通常の男優とすごい反重力作用を持った女優をシュワルツシルト半径へ入れて女優が騎乗位とかで動けば良いのです。

しかしこの方法には1つ弱点があって、ハメ撮りは出来ないんですよ。シュワルツシルト半径の外からは時間が止まって「見える」のですが、本人達の時間が止まってる訳ではないからです。そう考えると、時間って何なんでしょうね。そもそも「時間」という概念は一体何なのか、正確に記述する事は不可能なのかもしれません。言語では包摂し切れないのではないかと思ってしまいます。我々は日常生活でも蓋然性を持って「時間」という単語を使いますが、良く良く考えると「過去が有る」とか「未来が有る」って表現も言語的には記述可能だけど、正確に概念として捉えるのは不可能な気もします。

いつもこういう事を考え始めると、最終的には堂々巡りになって頭の中が「ぴろぴろー」となって思考停止してしまいます。

閑話休題

まぁそんな感じで、俺なりに時間停止物AVを撮る方法を考えてみたって話です。最後まで読んでくれたそこの貴方には、その胆力に称賛の意を示して締めくくりたいと思います。ありがとね。

他人に共感を強制するのってどうなのよ

どうも皆さんこんにちは。

先日、池袋で『イェルマ』という映画を観てきたんですよ。ただ、映画とは言っても、ロンドンのナショナルシアターで上演された舞台を撮影した作品なので、映画なんだけれど実質的には舞台を観劇したのに等しいかもしれないです。

スペインの劇作家、ガルシーア・ロルカが1930年代に発表したオリジナルの『イェルマ』を話の筋は変えずに、時代設定や作品の舞台を現代のロンドンにアップデートした物語となっていました。あらすじは自体は原作と同様で、子宝に恵まれない夫婦が苦悩を重ね、次第にその生活を破綻させていく悲劇になっています。

手前味噌はこの辺にして本題に入るとですね、作中に子供が出来ない事が原因で起こった激しい夫婦喧嘩のシーンがあって、その時に主人公のイェルマが夫に向かって(一言一句は合ってないけど)「本当は子供なんて欲しくなかったんでしょ!!だってあなたは私と一緒に嘆いてくれなかった!!」みたいな事を半狂乱で絶叫したんですね。

※このシーンの前後には非常の色々な文脈があるので気になる方は作品を要チェック!!

この台詞を聞いた時に、何故か凄い気持ち悪いというか嫌悪感が自分の中に沸き起こったんですよ。作品を見終わった後もこの台詞を反芻していてはたと、俺は「相手に共感を強制しようとする姿勢」が凄く嫌いなんだなと気付きました。

俺は良くも悪くも個人は個人であって、心の中がどうだろうがそれは個人の自由だと思ってるんです。そこに対して、「あなたが抱いている感情は自分の意にそぐわないからダメ。あなたもこう感じるべき」みたいなのって非常にクソファックだなぁと。

相手の考えにまで立ち入って糾弾するのってディストピア小説に出てくる検閲国家みたいじゃないですか。心の中くらい自由にさせてくれよと思うんですよね。

最近のネットを見ていても、一部の先鋭化した保守やリベラルの人たちが一定の思想をもつ人を攻撃したりしてますが、「うわぁ…」って辟易するんですよ。もちろん特定の個人を傷付ける言動はダメだと思いますけど、特定の思想を持っている事自体は別に良いんじゃないんですかね。

そんでもってこう言った内容の文章を書くと「それじゃあ、あなたはペドフィリアネクロフィリアみたいな思想の持ち主を肯定するんですか!!危険ですよ!!」とか何とか色々と言われるんだけども、そもそもさ、特定の思想を持つ事と他人の権利を侵害する事って全く別じゃん。なんでそこら辺の事柄を十把一絡げにして糾弾しようとするのかが理解できないんですよ。

日本の憲法でも様々な歴史の積み重ねがあった上で内心の自由が保証されている訳だし、どうしてそこを飛び越えて脊髄反射的に「ムキーッ!!」っとなっちゃうんでしょうか。特高警察の方々なんでしょうか。

そんな事をヌルヌルと思案していると、いつも最終的に至る結論があってですね、これは人里離れた山奥でほぼ自給自足の暮らしをするしかないなと思うんですよ。もうね、世間様からは半分降りて隠居するくらいの生活がちょうどいいんじゃないかと。Amazonもあるしね。ありがとうジェフ・ベゾス

まぁ半分は冗談ですけど、ベランダで家庭菜園くらいは始めようかな。やっぱナウなヤングはオーガニックでロハススローライフでしょ。東京カレンダーみたいにね。俺も足立区でにゃんにゃんセラピストになるよ。

話が脱線しまくってるので端的にまとめると、「他人の!!思想や信条に!!ケチをつけるんじゃねぇよ!!」ってことです。

映画を観て足立区にゃんにゃんセラピストに話を持っていく些か意味不明なブログですが、今回も最後まで読んでくれた方はありがとうございました。

また次回のブログでお会いしましょう。