ぢるぢるだいありーずおぶざでっど

女性向け風俗キャスト兼売り専ボーイのブログ

考え方の違う人にどう接すればいいのよ

ここ最近、電車に乗ってるときや寝る前なんかに、こんなことを考えることが多くなりました。タイトルは短めに書いたから、ここでいう「考え方の違う人」を少し正確に表現すると、「考え方や思想、信条が異なる相手と接したとき、その違いを理解する姿勢を持とうとしない(見せない)人」です。物事の価値観を相対化しないタイプの人と言ってもいいかもしれません。

「考え方の違い」を受け入れられるタイプの人は全然いいんですよ。「僕と君は考え方がちがうよね。まぁ、それはそれとして会話を進めようか」って感じで相対化できるのであれば、相手が極右だろうがヴィーガンだろうがスピ系だろうが、全く持って問題は無い訳です。

例えば地元の集会所で寄り合い(実家の方では未だにあるんですよ)が開かれるときなんかに地域の年長者と喋っていると、「お前は長男なんだから、先祖代々の土地を継いで家を守っていかないと駄目だぞ」とか「ちゃんと結婚して子供がいてこそ一人前だよな」みたいな事を言われるんですね。そんなのお前の趣味だろって話ですが。

この手の主張をする場合には大まかに2つのパターン(俺調べ)があって、「本気で主張してはおらず、悪気のないコミュニケーションとしての発話」、それか「その価値観が揺るぎない世界の真実だと信じて、それに基づく発話」です。たぶんね。

前者の場合であれば「おっちゃんまだそんなつまんないこと言ってんのかよー。とりあえず酒でも飲もうぜ、デュクシデュクシ」とか返しつつお酌でもしてれば無問題だけど、後者の場合だと少し困っちゃうのよ。普通に自分の意見を返しても、相手は揺るぎない彼なりの「世界の真実」に基づいて喋ってるから話が嚙み合わないし、こっちとしては取り敢えず適当に煙に巻くのが無難な対応になっちゃうんですね。

そんな時にふと、「俺はこの人に対して語るべき言葉を持っていないんだなぁ」とか思う訳です。お互いの声が届く距離にいるのに、2人の間にはそれはもう深い深い、マリアナ海溝もかくやと思われるほどの断絶が横たわっているのだなぁと。

 口論になるでもなく、どちらかが折れるでもなく、単に断絶を挟んでボヤんとしたコミュニケーションが進んでいくあの状態。やり取りを俯瞰的に見ればナンセンスなショートコントみたいで面白い様な気はするけど、やっぱり話している瞬間は「いや、どうすりゃええねん」って思いながら言葉を繋いでるんです。

別に相手の考え方を変えたいと思ってる訳じゃないのに、コミュニケーションの過程で目の前にあったはずの取り付く島が深い断絶の中にストンと吸い込まれちゃった時にはどうすればいいんですかね。純度100%の「いや、どうすりゃええねん」しか出てこないんですよ。

 冒頭にも書いた通り最近はそんな事を考えていて、現時点では「いや、どうすりゃええねん」以外の回答が浮かんでいない状態です。何かナイスな案がありましたら是非とも教えてくださいまし。

まぁ、ここまで書いておいてアレですが、前提として俺は考え方の違う人と喋るのも好きなんですけどね。てへ。

風俗で訊かれたくない質問について

この業界に入ってからというもの、「訊かれたくなかったらゴメンね」とか「こんな質問していいかわからないんだけど」みたいな枕詞とともに質問をされることが多くなった。それは例えば、セクシュアリティや出自、この仕事をしている理由など多岐に渡る。仮に俺が役所を辞めて売り専と女性向け風俗で働いている人に会ったら、「コイツは何を考えて生きてるんだ?」って思うだろうし、気になることが幾つか心に浮かぶ事は想像に難くない。

そこで、今回はタイトルにある通り「訊かれたくない質問」について、そこん所をクリアにしていこうと思う。その方がお互いにコミュニケーションも取りやすくなる気がするし。

先ず結論から書くと、「訊かれたくない質問」ってのは特に無い。そうなんです。無いんですよこれが。頭を捻って絞り出そうとするものの、本当に無いんだなこれが。しかしこれで終わりにしちゃうと身も蓋もないブログになっちゃうので、少し捕捉します。

①「訊かれたくない質問=答えたくない質問」ではない

例えば、極端な例だけど「預金残高と口座の暗証番号教えてよ」って訊かれたら、俺は「サンシャイン池崎じゃないんだから教えんわ」って答えると思うんですよ。そこで重要なのが、この質問ってのは「(その事実を)答えたくない質問」であって「訊かれたくない質問」ではないんですね。どんな内容の質問であれそれを発するということは、そこにコミュニケーションを取ろうとする意図を感じるので、全く嫌な気はしないんです。仮にその質問が例えば、底意地の悪い感情から発せられる「こーんな仕事をしているなんてご両親はどんな気持ちなんだろうねぇ~ゲヘゲヘ」みたいなのでも特に嫌な気はしないし、それは普通に答えます。ウェルカムです。

つまり、「答えたくない質問」ってのは確かにある(口座の暗証番号とか、社会通念上普通は訊かない系のやつ)んだけど、「訊かれたくない質問」ってのは本当に無いんですよ。なので、俺としては質問は何でもオッケーだし、内容によって気分を害することは皆無なのでどうぞよろしく。

② 自分の情報を明かすことにあまり抵抗がない

これはねぇ、自分でもなぜかよく分からないんだけど抵抗がないんですよ。この部分が昔から変わってなくて、小学生の頃なんかに親から注意された覚えがあります。他人のことについては勿論喋ったりはしないけど、自分のことを訊かれたときは特に何も考えずに喋っちゃうんですよね。役所を辞める際の面談で理由を訊かれた時も、「本当に風俗業界に入るわけだしまぁ良いか」と思ったから普通に「風俗業界に入るんで辞めます」って答えたし。

真摯に答えてるんだか、社会人的な相手との距離の取り方が分からないんだかなんだか知らんのですが、性格的にそんな感じですので、気になったことがあれば取り敢えず訊いてくださいませ。

 

ざっくりまとめますと、どんな形であれコミュニケーションを取るのが好きだし、特に訊かれたくない質問は無いから、肩肘張らんといてくださいって事です。

最後にもう1つだけ捕捉すると、この考え方は俺個人のものであって、他の風俗キャスト全般に言える事では全くないので、その辺は大人同士よろしくやってくれよな

それでは夢の島で逢いましょう。

 

かしこ

こんな時代だからこそ冷笑的にはなりたくない

こんな時代だから(という表現は些か紋切り型だけれど)何かと上手くいかないことが多い。バンドでレコーディングを始めようと思ったらスタジオが休業したり、シーシャ屋さんでも働き始めようと思ったら人員を抑える関係で求人が無くなったり、出張企画を組んだ矢先にコロナの影響でフライトの変更やGoToの見直しが行われたり。そういえば買ったズボンのサイズは間違ってたし、おまけに昨日は家の鍵を無くした。なんだか踏んだり蹴ったりである。

こんな空気感が続くと、自分の中で冷笑的な態度が何処からともなく顔を擡げてくる。「今何かやったってしょうがなくね?」とか「こんな状況でアツくなってもなぁ」とか何とか。早い話が失敗した時の損失を考えるのが嫌なので、あえて冷笑的で斜に構えた態度をとって自分への損失を先回りで回避しようとしているのだ。

この冷笑的な態度は何かを始めるのには厄介だけど、今この瞬間と少し先の未来で傷つかないためには恐ろしいほどに便利でもある。だって先攻ではなく常に後攻で、安全地帯からカウンターを狙っていればそれで済むから。何に対しても後出しで「ほら、こんな状況なんだからやっぱりダメだったじゃん。自分はやらなくてよかったよ」って言えば済むから。それに自分がそこはかとなく賢くなった気にもなれるしとても便利なの。

でも、だからこそ、冷笑的な態度には陥りたくないと思っている。これは徐々に精神を蝕む粗悪なドラッグみたいなもんで、時間が経つと自分が冷笑的な態度をとっていることすら忘れてしまう瞬間がある。そして自発的に行動を起こす事をやめて、安全地帯からニヤリと空虚に笑うオブジェになってしまう空恐ろしさすら感じるからだ。

じゃあどんな対処法があるのかを考えると、残念ながら決定的な解は無いように感じる。自分の思考を自由自在に操って冷笑的な部分だけを除くことなんてできないし、やりたいこと全てを上手くやってのけるほどの全知全能さも残念ながら持ち合わせていない。

ただ、自分なりに考えた対策として、「あえて」の文脈だけは大切にしようと思っている。つまり、こんな状況だけれども、「あえて」何かをやってみて、その結果が芳しくなくても斜に構えずに「あえて」正面から受け入れるし、「あえて」前向きに解釈する姿勢だけは保っていたいのだ。最近は「あえて」の文脈で自分の思考をハッキングするようなイメージで生きている。

人間の思考ってのは不思議なもので、最初は癖をつけるように、自分に言い聞かせるように、「あえて」の文脈を大切にしようとしていたのが、今では割とベタにその思考が出来るようになってきた。とはいえ、時には「『あえて』の文脈を大切にしようとしている自分」を俯瞰的に眺めて、それを冷笑するような、何と言うかメタメタ思考に陥る瞬間はある。そんな時には「浅野いにお作品の主人公じゃないんだから」とか突っ込みを入れて何とか乗り切っている。プンプン。

まぁアレです。どんな状況だろうと、何かしらの変化を起こしていった方が絶対に楽しいと思うんです。先述した通り冷笑的な態度だと何かを始めるのが著しく難しくなってしまうけど、それを乗り越えて何かに手を出してみる。その結果が経済的や精神的な損失に繋がってしまったとしても、それすら「あえて」楽しむ姿勢でいられれば良いのかなぁなんて。世界なんて各々が完璧な人生を歩める制度設計になってないんだから、それくらいの姿勢でいたってバチは当たらないでしょう。

最近はそんなことを考えながら生きてます。自分が安全地帯からニヤリと空虚に笑うオブジェにだけはならないように。

やりたい事はやるべきだと思う理由

これについて考えるようになったきっかけは幾つかあるけれど、一番大きな出来事は役所に入った初年度に世話になった部長が定年退職後すぐに白血病で亡くなってしまった事だと思う。とてもバイタリティに溢れていて、60歳手前なのに若手職員に混ざってテニスやフットサルをやるような人だった。「定年したらスポーツ三昧ですね」なんて最後の忘年会で話していたのもあって、勤務中に訃報を聞いた時は流石に驚いたのを覚えている。

それからと言うもの、今後の人生とかやりたい事について考える時間が多くなり、その中で自分なりに辿り着いたのは「そうだったかもしれない過去なんて無いし、有り得べき未来なんてのも無い」って考えだった。身も蓋もないけど、今でもそう思っている。

「本当は〇〇(仕事でも趣味でも何でも)をやりたかったんだよ」とか「近いうちに時間があれば〇〇したいなぁ」とか、口にする気持ちはすごい分かる。分かるんだけども、往々にしてその〇〇は達成されないまま時間だけ過ぎていくケースが多い。そして、その「出来なかった〇〇」は人生のふとした瞬間に顔を擡げる亡霊のように付き纏ってくるのだ。

この亡霊が厄介なのは、〇〇に焦がれて死ぬほど辛い状態が常に続く訳ではない点だと思う。そうではなく、普段は忘れているのに、寝る前や友人と遊んだ帰り道なんかに、アイツはそっと肩に手を置いて「お前、本当は〇〇やってみたかったのにな」と囁くのだ。そしてのらりくらりとその手を振り払って日常生活に戻るけれど、また暫くしたら現れる。

飲み会や何かで、自分より何十歳も上の人がその手の後悔をポツポツと口にする場面に数え切れないほど遭遇したから、長い時間が経てば居なくなる亡霊でも無いのだろう。本当に些細な事だったら別だろうけど、一生付き纏ってくるしつこい亡霊達みたいだ。

翻って、「そうだったかもしれない過去なんて無いし、有り得べき未来なんてのも無い」って考えに辿り着いた自分が出した亡霊対策は、「とりあえずやってみる」だった。IQが低そうな対策だけど、正直言って俺はこれ以外が思いつかなかった。でも実践してみると思った以上に有効な手段な気がしたし、少しだけ視界が開けた感覚が掴めた。例えば

ライブ→恥ずかしいけどとりあえずやってみる

アルバム制作→難しそうだけどとりあえずやってみる

ヒッチハイク→怖いけどとりあえずやってみる

野宿→怖いけどとりあえずやってみる

ドヤ街→怖いけどとりあえず泊まってみる

公務員→とりあえず辞めてみる

〇〇〇⚪︎〇→とりあえず食べてみる

みたいな感じだ。

実践して思ったのは、個人的にはそれが成功するかどうかってのは余り気にしてなくて、「実際にやってみて自分がどう感じたか」って方が遥かに大切だって事だった。失敗したら、「それが失敗した」って結果が分かるだけでも面白いし、やる価値があったなと。そんで結局のところ、「何かをやるかやらないか」って薄い氷を隔てたくらいの差しかなくて、ほんの少し指で突けばその差なんて無くなってしまう程度のものだから、それならとりあえずやってみた方が良いんじゃねぇのと思う訳です。そうすれば見える景色や感じる何かがあるだろうから。

いささか雑駁な文章だけど、ここ数年はこんな感じで生きてます。最後まで読んでくれてありがとね。

焼肉とエロスとIQについて。

突然だが論点を整理しよう。近代以前は自由刑(監獄で自由を奪う刑罰)ではなく身体刑(四肢を引き裂くとか)が主流であり、その本質は絶対的な王の権力の見せしめと祝祭であった。そして祝祭とは規範や禁止の乗り越えであり、エロティシズムと深く結びついている。放蕩と言っても良いかもしれない。前者はミシェル・フーコーで後者はジョルジュ・バタイユが言及していた内容である。

こんな文章から始めたのにはモチロン明確な理由がある。

「焼肉とはエロスであり、そうであるが故に我々のIQを著しく低下させパッパラパーにさせてしまう」という説を補完し、論駁不可能なテーゼに昇華させるためである。先ずは「焼肉という行為はエロスである」について説明しよう。

俺は時々1人で焼肉屋に行ってジュウジュウと肉を焼く。側から見ればアラサー男性がせっせと肉を焼き喰らっているだけなのだが、当の本人は心の中で焼かれる肉に向かって「んほーえっちだねぇ」と呟いている。とりわけレバーとコプチャンはえっちである。えっちすぎて公安が乗り込んできたら、その場にいる全員が監獄行き決定である。

さて、皆さんも焼肉屋で肉を焼くシーンを思い描いて欲しい。トングで生の肉を掴み高温の網に乗せ、焼いて喰らう。これは何を意味しているか。そう、まさに近代以前の身体刑に酷似しているのだ。牛さんや豚さんを切り刻み、臓物を引き摺り出した上で火に焚べる。その瞬間、我々は刑罰を下す絶対的な王であり、熟練の処刑人であり、その祝祭的瞬間を見物する民衆になるのだ。これはブチ上がる。まさに三位一体であり非常にえっちである。

詰まるところ、焼肉という行為は何重にも規範や禁止を乗り越えているのだ。それらがスパイスとなり焼肉は終始一貫して祝祭的でえっちな行為になってしまう。けしからん。

次に後半の「我々のIQを著しく低下させる」部分についてだ。

「焼肉とは祝祭的でありえっちである」、ここから何故IQの低下が導き出されるのかは非常に明白で、焼肉は祝祭的でえっちであるが故に「ディオニュソス的」だからである。「ディオニュソス的」とは、享楽と陶酔を肯定し、現世での生を謳歌する姿勢である。現代社会によって手枷足枷を付けられた情念を解放し、抑圧された内奥性を焼肉という行為は思い出させてくれる。

そんな理性的とは対極の状態ではIQは全く意味をなさず、我々は「今」を徹底的に肯定し、一回限りの生を受け入れて一時的に肉を享楽し陶酔するのだ。つまり肉をサーブされた瞬間からIQをディオニュソスに明け渡し、パッパラパーでLowIQな超人と化す。ぴろぴろー。

以上の理由から、焼肉とはエロスであり、そうであるが故に我々のIQを著しく低下させパッパラパーにさせてしまうのだ。

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この画像なんて、俺は見た瞬間にIQが3くらいになっちゃうからね。恐ろしいことやで。

将来の不安について。

これがですね、よく訊かれるんですよ。確かに公務員を辞めて風俗店を掛け持ちして、バンドをやっててシェアハウスに住んでアッパラパーな生活をしているので側から見れば将来に楽観的過ぎると感じるのも無理ないなと思います。仮に俺が、自分と全く同じステータスの人物に邂逅したら「あー、コイツはちょっとアカン奴やな」って思いそうですし。

ただですね、俺は虚勢を張ってるとかじゃなくて、将来に特別な不安を感じていないんです。その理由は大きく分けて3つほどあります。

①数十年後の世界を予想出来る想像力がない

②数ヶ月先の事しか考えてない

③往々にして何とかなる(気がする)

 

それらの順を追って説明しましょう。

①数十年後の事を予想出来る想像力がない

例えば、第二次世界大戦中は「お国のために死ぬべき」とか言ってた人が終戦玉音放送以降は戦後民主主義に染まったり、ロマノフ王朝ソ連になったり、コロナ禍でマスクが半ば必需品になったり、正直言って数年先の未来でさえ予想できないじゃないですか。そして根本的に、将来(≒未来)が存在するかさえわからんのですよ。我々は言語によって「将来」とか「未来」みたいなのが恰も確実に存在するかのように話し、振る舞うけど、そんなのはまやかしであって実存的な確信は無い訳ですよね。そもそも、「未来」が「来る」とか「ある」って表現として相当意味不明だと思います。

例えば大賢者とかシャーマンみたいな人が予言めいた事を言ったとしても、俺は確実に予想もできない事物に対して心配をする能力が備わっていないのです。それは短絡的な思考かも知れないけど、俺の性格上そうなってしまうのですね。

②数ヶ月先の事しか考えてない

俺は遠い将来の事は全くわからないけれど、例えば1ヵ月先の生活であれば少しばかりの仮説を立てる頭はある訳です。それは今の自分の立ち位置だったり、やりたい事や世情なんかを脳内に羅列して、何となく帰納的に「来月はこんな感じなんじゃなかろうか」って程度ですけど。

ちなみに今は、レコーディング/引っ越し/シーシャ屋でも少し働きたい/福岡出張/家具を買う/etc...辺りが頭の中にあります。なので、「まぁ来月はレコーディングに一回入って、物件決めて引っ越して週に2日くらい働ける良さげなシーシャ屋さんでも探してるんだろうな」みたいな事はわかるんですね。

それじゃあ今日何をすべきかって演繹的に何となくわかるじゃないですか。今の俺だったら、コーラスの練習とかブログを書くとか宣材写真を撮るとか安い家具を探すとかです。それを毎日少しずつアップデートしていけば自ずと時間が過ぎていきます。「将来」なんてもんはいきなり眼前にボンと現れるんじゃなくて、「今この瞬間の成れの果て」なんだから、あるかもわからない将来を憂いているよりは自分が置かれている「今現在」を少しずつどうにかしていった方が良いんじゃないのと思います。なので俺は今月とか、長くても数ヶ月先の事しかほぼ考えていません。そうすると、不思議と「漠然とした将来への不安」みたいなのは考えないんですよね。俺の性格的な問題かも知れないけど。

③往々にして何とかなる(気がする)

これを言ってしまうと身も蓋もないですが、何とかなる気がしちゃうんですよ。勿論、不治の病を患ったり、不慮の事故に遭う可能性もあるので、その時は腹を括って諦めるしかないのですが、それ以外のパターンだったら何とかなる気がしています。

幸か不幸か日本に生まれた以上は日本のセーフティネットに絡みとられる訳で、(精神的なものは別にして)構造的には何とかなるんですよ。公務員だった頃に、「失業して街場でホームレスになった場合」「疾走する場合」「山の中で生活する場合」等々と状況を仮定して、それぞれについて書籍やネットで調べました。すると生保を受けるにしろ、非合法的な生活をするにしろ、サバイバル生活をするにしろ、どのパターンでも(現行の憲法化で、且つ隕石が落ちて来ない限りは)何とかなる事に気付きました。つまり「とりあえず死にはしない」って事です。

そうと決まれば「やりたい事を出来ない不安」を如何に解消するかを主軸に置いた生活をした方が精神衛生上良いと考えました。

まぁアレです、すっごい雑にまとまると、「長期的な未来なんか分からん以上、とりあえず今できる事を頑張るぜ。そしたら将来への不安は不思議と感じないんだな」って結論です。

今はそんな感じで生きています。10年後は考え方が変わってるかも知れないけど。

少しだけ、カオティック。

「少しだけ、カオティックだな」と思った。街は全くの無秩序じゃないし、かと言って全てが秩序立っている訳でもない。飽く迄も「少しだけ、カオティック」なのだ。それが大阪にある通称「あいりん地区」に滞在した時の素直な感想だった。

それはなんと言うか、令和の時代にあって、行政権力や警察権力の介入から零れ落ちている様な空間だった。街には路上で寝てる人や酒盛りをしている人、呂律の回らない声で喧嘩をしている人、猫や用途不明のガラクタが目立ち、それらを蝉の鳴き声と照りつける八月の太陽が包んでいた。

そして自動販売機は50円、ラーメンは200円から、宿泊は1000円も出せば十分なくらいに物価は安く、コインランドリーや銭湯も多い。詰まるところ周辺に比べて生活コストが極端に低く、少額で滞在可能なのだ。

そりゃあ色々な人が流れ着く筈だと思いながら街を歩くと、「居酒屋で覚醒剤を売るな!」と書かれた看板等、色々な光景が目に飛び込んできた。滞在中はスーパー玉出で見知らぬおっちゃんに「なぁにいちゃん、素麺買ってくれや」と絡まれたり、夜道では酔っ払いに絡まれたりして、多少なりとも厄介な思いはした。しかしどうしてもこの街が嫌いになれないと言うか、ある種のシンパシーを抱いている自分がいたのだ。

それはつまり「無秩序さ」の残滓に対するシンパシーだ。

周辺を少し歩けば、都市計画が行き渡り、秩序だって整備された地域が広がっている。そして目線を上げれば高層ビルの「あべのハルカス」が我々を睥睨しているのも感じる。おまけに(ある意味で)華やかな飛田新地もすぐ隣だ。

そんな中にあって、周辺の地域が発展するのにしたがって失ってしまった「無秩序さ」の残滓がこの街に集まり、有機的に絡みあっている。それは例えば道路に無造作に置かれた椅子やテーブルやパラソル、公園内に建てられた建造物、露店、路上で寝ている人などだ。かつて法の狭間に存在したであろうある種の「無秩序さ」がここには確かに残っていて、それに対して確かにシンパシーを感じるのだ。それは自分が公務員を辞めて風俗で働いているからかもしれないし、生来の性格から来るものかもしれないし、出所は定かではない。

しかし、この「無秩序さ」の残滓が絡み合いキメラの様な存在感を醸し出す街が好きなのだ。ドヤの部屋が汚かろうが、酔っ払いに絡まれようが、全てが秩序だった街よりも余程魅力を感じてしまう。

そして滞在期間が終わって街を後にする時には、またいつか戻ってくるだろうとの予感と共にマスクの中で独り言ちるのだ。「少しだけ、カオティックだなぁ」と。