ぢるぢるだいありーずおぶざでっど

女性向け風俗キャスト兼売り専ボーイのブログ

マイノリティを「受け入れる」という表現への違和感

ここ最近、ネット上でも何処でも所謂「マイノリティ」に関する言説ってとても増えたような気がします。一口にマイノリティと言っても、それは出自や宗教、性的指向性自認等々と多岐に渡るけど、兎にも角にも増えた気がするんですね。

そんな近頃なので、何かしらのマイノリティに対して自分の立場を表明する場面ってあるじゃないですか。それらの発言で、例えば「僕(私)はゲイ(トランス、在日、etc...)の人が周りにいても受け入れるよ」的な表現を目にするたびに、なーんか違和感があったんですよ。最初は自分でもよく分からない違和感だったけど、最近になってその理由が少し分かったのでここに書いておこうと思いました。

ちなみに、ここで書く「受け入れる」ってのは、何かしらのマイノリティが持つ属性や特性について、それらを概念そのものとして、また理解可能な現象として排除せずに自分の範疇に「受け入れる」って意味で使う場合についてです。なので、例えば「日本は難民を『受け入れる』」とか「我が社は何かの障害を持った人でも社員として『受け入れる』」みたいな、物理的に受け入れる使い方は別枠です。

さて、お話を違和感の方に戻します。自分の中で色々と考えをこねくり回した結果、以下の2つの理由が出てきたので、それぞれ説明します。

 

①悪意のないマジョリティ意識と権力関係

②ゆるやかな分断線

 

①悪意のないマジョリティ意識と権力関係について

人が何かを「受け入れる」って状態は何かを「受け入れる人」と「受け入れられる人」が存在して成り立つじゃないですか。そんで、こと属性に関する話だと、基本的に受け入れる側の人がマジョリティ側であるケースが圧倒的に多い訳です(例えば「シスヘテロ側(圧倒的多数派)がLGBT(少数派)を受け入れる」という表現とか)。

そして更に、この問題については受け入れる側が基本的な決定権を持ってる気がします。つまり、何かを「受け入れる」ということは、同時に「受け入れないでおく」ことも十分に可能であり、そこには目に見えない権力関係が横たわっているのかなと。まぁ、「受け入れられることを受け入れない」ってのもあるけど、それは二次的な話なので脇に置きます。

例えば「私はノンケだけどゲイの人も受け入れるよー」って表現には、「『私』という存在がマジョリティ側であり、受け入れる/受け入れないの判断を下せる権力者である」という構造が見え隠れしていて、俺はその辺に微かな違和感を持ったんだと思います。

もちろん、「受け入れる」的な表現に悪意や驕りみたいなのは無いんだろうけど、単純に俺が微かな違和感を持ったぜって話です。パンクが好きだからかもしれない。

 

②ゆるやかな分断線について

全人類で全ての分断を完璧に取っ払うとしたら、碇ゲンドウが夢見た人類補完計画を完遂するしか道はないのは分かってます。ちなみに俺は葛城ミサト派です。『シン・エヴァンゲリオン』での活躍も素晴らしかったです。

 閑話休題

前提として、目の前に(何かの尺度に当てはめたら)マイノリティと呼ばれる人が居た場合、その属性に関する客観的な知識は大切だと思います。本人に教えてもらったり、自分で調べたりして、例えば不用意に宗教的なタブーや何かを侵さないようにするのがベターかなと。

ただ、それとは別に、「彼はゲイだけど受け入れる」とか「彼女は敬虔なモルモン教徒だけど受け入れる」みたいに属性的な色眼鏡を通した上で見ちゃうと、彼(彼女)の人間性の手前でジャッジメントを1つ挟む事になるじゃないですか。基本的な属性にタグ付けされた色眼鏡なんて余り当てにならないし、それって彼(彼女)との間にゆるやかな分断線を引く結果になるだけなんじゃないかと思います。

 

俺がどことなく持っていた、「(何かのマイノリティ)を『受け入れる』」って表現に対する違和感の正体をまとめると、「そこには構造的にマジョリティ意識と権力関係が見え隠れしていて、更にその主体と客体の間に分断線を引いてしまう様な感じがするから」です。

まぁ別にこの考え方が正解でもないだろうし、「こいつはこんな風に考えてるのね」くらいに受け取ってもらえれば幸いです。