ぢるぢるだいありーずおぶざでっど

女性向け風俗キャスト兼売り専ボーイのブログ

「此処じゃない何処か」という病

「此処じゃない何処かへ行きたい」

はて、それについて明確に考え始めたのはいつ頃からだったか知らんと思いを巡らせている。高校生くらいまでは割と真っ当に生きていたかもしれない。いや、思い返すと小学生の時分に妖怪図鑑や月刊ムーでスクラップブックを作ったり、近所の山林にモンスターを探しに行ったりしていたので、その頃にはもう「此処じゃない何処か」に対する憧憬が芽生えていたのかもしれない。

そう言えば、小学校の理科の授業で電気について学習した時には「電気を身体に通せば何か凄い能力が芽生えるかもしれない」と思ってタコ足配線用のプラグを分解して、その金具の部分を手に持ったままコンセントに差し込んで失神しかけた事もあった。ちなみに恐ろしく痛かったし残念ながら凄い能力は開眼しなかった。

さて、そんなリテラシー皆無な少年も大学生となり、3〜4年生頃から「此処じゃない何処か」を明確に意識するようになった気がする。当時は東京の古本屋街である神保町付近に住んでいたので古今東西の書籍を安く手に入れる事が出来たし、所属していた文化論のゼミナールでは魔女のような風貌の指導教授の元で延々と議論出来る環境だったので、自分の考えを言葉にしたり常識を疑う事も学んだ。

その頃バイトをしていたコンビニの店長も風変わりな人物で、夜になるとバックルームに段ボールを敷いて寝たり、平然と酒を飲みながらレジを打ったりしていた。「そんなにお酒飲んでて大丈夫なんですか?」と訊いても「大丈夫大丈夫。それに俺が飲んでるのはウォッカだからウイスキーとか日本酒と違って匂わないんだよ。ヒヒヒ。」と笑っていた。しかし店長はお酒の匂いがしたし、店長が打った後のレジは現金の帳尻がよくズレていた。そしてバックルームには店長の友達(?)なる人物が頻繁に集って酒盛りをしており、俺も混ぜてもらっていたが未だに彼らが何者だったのかはわからない。と言うか数年前に店が潰れていて全ては闇の中である。

そんなこんなで俺の思想は20歳前後で徹底的にスクラップアンドビルドされ、「此処じゃない何処か」、まぁ有り体に言えば「ユートピア」って良いなぁと夢想する非生産的人間に成り下がった訳だ。そんなタイミングで普通に就職してしまったのがマズかったのかもしれない。就職先の役所では人間関係は良かったものの、息苦しさが次第に勝つようになっていった。「議論はするが、その前提についての議論はダメ」とか「空気や雰囲気を重んじる」等々、「此処じゃない何処か」について考えるのが好きな俺にとっては悪い意味でのダルい日々が続いていった。

物理的に無理であっても精神的に「此処じゃない何処か」へ行かないと発狂してしまうと思った俺はビートニクやヒッピー、デカダンスの諸先輩方に習って色々と試してみることにした。

マリ◯ンが良いと聞けば麻の実を買ってきたし、ペヨ◯テは色々観れると聞けば輸入したし、ブ◯ンやリ◯カはチルアウト系と聞けばドラッグストアにも行った。オランダのアムステルダムは法的にアツいとも噂で聞いたので適当に理由をでっち上げて現地に訪れた。

幾つかは効いたし、幾つかはダメだった。それに、一時的な逃避が可能なだけで根本的な解決策にはなり得ない事も学んだ。それでも「此処じゃない何処か」を求めずにはいられなかった。何と言うか、一種の病なのかもしれない。

精神世界に継続的なユートピアを求めることは恐らく難しいと悟った俺は、現実世界でなんとか実現出来ないか知らんと思うようになった。勿論だが完璧な回答は無いし、有ったらとっくに試している。そしてそもそも「ユートピア(理想郷)」は現実世界には存在しないからユートピア命名されている訳で、「現実世界で(ユートピアを)実現する」という表現は矛盾している。

閑話休題

暫定的な案としては、「世界の仕組みに敢えて乗ること」で、目下お試し中である。仕組みに「従う」ではなく「敢えて乗る」点が重要で、飽くまでも自分は自由でありいつでも半旗を翻せる存在である事を意識するのが肝要と思っている。

世界なんて一朝一夕で変わるもんでもないし、都合の良い革命が起こる可能性も極めて低い。であれば、その世界の中でトリックスター然として行動すれば世界への眼差しが変わってくるのではと目論んでいるのだ。数年も経てば考え方も変わるのだろうけど、今現在はこんな事を考えている。

「此処じゃない何処か」に囚われた人間として。

風俗の従業員を「セラピスト」と呼ぶ事の違和感について

女性向け風俗業界って、所属する従業員を「セラピスト」って表現するケースが多いじゃないですか。勿論その呼称を用いる事自体は違法ではいので御仁方々が勝手に使用すればよろしいと思うのですが、この業界に入った当初から「セラピスト」という単語に何処か違和感があったんですよ。

初めの頃は「なんかモヤっとするなぁ」くらいにしか考えてなかったのですが、ここ最近になってそのモヤモヤの理由が少し言語化できたので、ここに書いていこうと思います。

本題に入る前に一応名言しておきますが、これは単純に俺のイデオロギーの表明であって、さらに「セラピストと名乗るな」と言ってる訳ではないのでそこんとこよろしくお願いします。現代ネット社会に跳梁跋扈する、感情的な批判で鬼の首を取ったような態度を取るリベラル自警団的な輩は近日中に豚に食われると思います。

さて、先ずは「セラピスト」の辞書的な意味を調べてみると下記のような結果になりました。

セラピスト→社会復帰のための療法を専門に行う人。療法士。治療士。(出典:三省堂 大辞林 第3版)

ついでに「療法」と「治療」についても調べてみました。(出典は上記と同じ)

療法→病気のなおし方。治療の方法。 

治療→病気をなおすこと。治療。 

これから分かる通り、本来「セラピスト」とは特定の症状や状態からの治療者や救済者的なイメージを包摂する単語になっています。ここまでは辞書を引けば誰でも到達出来るし、特段の異論も無いかと思います。

ここからが本題なのですが、俺はこの「セラピスト」という単語を風俗店の従業員に当てはめる事には明確に違和感があるんです。繰り返しますが、これは俺の風俗に対するイデオロギーから導き出される答えなので、誰かに押し付けたり、何かをこき下ろしたい主張ではないからな。横浜家系ラーメンか二郎系ラーメンのどっちが好きか議論と同じくらいの地平に立ってると思ってください。ちなみに俺はトムヤムクンヌードルが好きです。さて、外堀をしっかりと埋めたところでその理由について書こうと思いますが、大きく分けると以下の2つになります。

性風俗業界は性的欲求を一時的に満たしたり、非日常を楽しむ場だと思っているから。

②「セラピスト」という単語が持つ治療的、救済的なイメージを求めて来たお客さんとのミスマッチが生む悲劇を避けたいから。

先ずは①についてです。

俺は風俗業界ってエンタメみたいなもんで、性欲を満たしたり、従業員との非日常的な空間を楽しんだりする事が先ず一義的に有ると思ってます。勿論そこには、頭では理解しているけれども割り切れない感情や罪悪感、金銭を介在させる後ろめたさ等々の様々な心の動きがあるでしょう。でも、それらを割り切れないまま心に内包して楽しむ様は正に「粋」だなぁと思うのです。

相手は1人の人間なので、全てを完璧に割り切って綺麗さっぱり遊ぶってのは場合によっては難しい事が多いかもしれません。言葉で「割り切る」と言うのは簡単ですが、実際にはそう簡単でない事は俺も分かります。それでも、その割り切れなさ等の不確定な感情と向き合いながら楽しむのが風俗だと思ってます。玉虫色の解答なんて無いでしょう。

と、まぁ俺は風俗をそんな感じで捉えているので、そこの従業員を「セラピスト」と呼ぶのには違和感があるんですよ。

だって風俗の本質はセラピーじゃないと思ってるから。臨床心理士とか理学療法士をセラピストって呼ぶのは理にかなってると思いますよ。それらは明確に治療や社会復帰に携わる分野なので、腹落ちします。ですが、風俗の従業員を「セラピスト」と呼ぶのは流石に言葉の意味を拡大解釈し過ぎだし、次の理由で書くミスマッチの根源になってしまうと思います。

次に②についてです。

風俗の本質はセラピーではないと書きましたが、副次的にセラピー的な要素がある事や、その側面を求めて利用する人も全く否定しません。実際に、「男性が苦手だったけど少し受け入れられるようになった」とか「性に対してネガティブなイメージを持ってたけど、考え方が変わった」等の嬉しい感想をいただく場面も多いです。

ですが、それは専門的な知識や手法に基づいた結果ではないので、俺との相性がたまたま良かっただけだと考えられます。本当にそれ以上でもそれ以下でもないんです。

それにも関わらず、例えば女性向け風俗業界がセラピー的な側面を匂わせて集客をしていったらどうなるかって火を見るよりも明らかじゃないですか?

それは「救われたかったけど救われなかった人」が続出する結果になるんですよ。風俗の従業員は治療の専門家ではないので、結果的に人を救う事はあっても、それを目的に接客する事はほぼ不可能だと思います。医療系の本業と掛け持ちしてる人は別かもしれませんが。

「楽しみたかったけど楽しめなかった人」に対しては謝罪や返金で対応は出来るでしょうし、そもそもお客さん側も「期待外れだったけどまぁしょうがないか」くらいで済ますかもしれません。ですが、「救われたかったけど救われなかった人」に対しては謝罪や返金では埋め合わせなんか出来ない訳ですよ。

そもそも、「楽しめなかった」と「救われなかった」の間には天と地ほどの差が鎮座していて、俺は正直言って後者の状態に陥った人にかけるべき言葉を持っていないです。業界やら店やらが高尚で素晴らしいセラピー的な大風呂敷を広げるのは勝手だと思うけど、救われなかった人達の人生に対して責任なんて取り切れないでしょう。

だったら最初からセラピー的な雰囲気ではなく広い意味でのエンタメ方向に舵を切っておけば、従業員とお客さんの「救われなかった」的な悲劇的なミスマッチは減ると思います。そういった観点からも、従業員を「セラピスト」と呼ぶ事には違和感があります。

まぁ長々と講釈垂れてますが、俺は早い話が風俗の本質はセラピーではなくエンタメだと思っていて、であれば従業員の呼称は「セラピスト」ではなく「キャスト」とかの方がお客さんとのミスマッチは減るし、そもそもセラピーの枠外である風俗店の従業員を「セラピスト」と呼ぶのは物事の本質を覆い隠して印象だけ良くする欺瞞じゃねぇのと感じてしまう訳です。

そんな感じの理由で、俺は風俗店の従業員を「セラピスト」と呼ぶ事に違和感があるんだぜって話です。

この主張には反対意見や気分を害する人も居ると思いますが、戦後日本から受け継がれた言論の自由のもとで俺の意見を書いてます。なので逆に批判や反対意見は聞きますし、議論する事も吝かではありません。

長々とした文章を読んでくださって有難う御座いました。アデュー。

時間停止物AVに物申す

AVのジャンルで時間停止物があるのって知ってます?

ざっくり説明すると、主人公(殆どは男優)以外の時間が止まっている空間で、その主人公が静止している女優等々に好き勝手イタズラしたりセックスする作品です。しかしですね、某巨大掲示板から得た情報によると、あの手の作品の99%は偽物、つまり実際には時間が止まってないらしいんですよ。

これだけコンプライアンスエビデンスが重要視される社会において、その99%が偽物である作品群ってのは如何なものかと思います。「悪貨は良貨を駆逐する」って言葉もある通り、このままでは残された1%の良貨までも淘汰されてしまうかもしれません。

そこでですね、微力ながらもアダルト業界の力になりたいと思ったので、俺なりに時間停止物AVを撮影する方法を考えてみました。以下にはヘーゲルも腰を抜かすほどの思弁的弁証法により捻り出したエポックメイキングでファビュラスなアイデアを記述します。刮目せよ。

手前味噌ですけど、「時間停止装置」みたいに非現実的なデバイスは存在しないことを認めましょう。断言しますが、「時間停止装置」又はこれに類する何かが出てくる時間停止物AVは100%偽物です。現代の科学力でその様なデバイスを作成する事は不可能ですし、そもそも「時間が停止した空間で撮影する」という事象は矛盾しています。

そこで俺が提唱する方法はコレです↓↓

ブラックホールを利用する」

いいですか?原理的に考えてこれ以外の方法はほぼあり得ないんですよ。順を追って説明しましょう。

アインシュタインが発表した「一般特殊相対性理論」によると、時間は絶対的なものではなくて弾力性を有しています。そして、極度に重力が強い場所では時間が遅れます。つまり、極度に重力が強い場所(≒ブラックホール)にある事物は、遠くから見るとその動きが止まって見えるんですね。それを踏まえた上で話を進めますが、ここからがマグマなんです。

先ずは撮影者、男優(条件あり、後述します)、女優の3人でスペースシャトルに乗ってブラックホールの近くまで行きます。そして、撮影者を機内に残して男優と女優がブラックホールに向かいます。徐々にブラックホールの中(特異点)へ向かっていく2人ですが、ある一定の距離まで近づくと撮影者から見た2人の動きは止まって見えます。ちなみに、この一定の距離を「シュワルツシルト半径」と呼び、この半径に入った事物は、光でさえも脱出不可能と言われています。つまり、ブラックホールの大きさはシュワルツシルト半径で表すことが出来るんですね。

2人の動きが止まったら撮影者はカメラを回し始める訳ですが、そのままだとただの静止画になってしまいますよね。そこで、先ほど男優に条件有りと書いた理由が明らかになります。察しの良い方ならもう薄々気付いてるかもしれませんが、男優は「すごい反重力作用を持った人」じゃないとダメなんです。

男優はシュワルツシルト半径に入ったら反重力作用を発揮して、自分を地球と同じくらいの良い塩梅の重力に戻して女優とセックスをします。するとどうでしょう、撮影者から見ると、女優の時間は止まって、男優の時間は地球と同じように流れている筈です。その様子を撮影すれば、時間停止物AVが出来上がるって寸法です。女優が男優を攻める痴女系AVを撮りたい場合は、役割を逆転させれば解決します。つまり、通常の男優とすごい反重力作用を持った女優をシュワルツシルト半径へ入れて女優が騎乗位とかで動けば良いのです。

しかしこの方法には1つ弱点があって、ハメ撮りは出来ないんですよ。シュワルツシルト半径の外からは時間が止まって「見える」のですが、本人達の時間が止まってる訳ではないからです。そう考えると、時間って何なんでしょうね。そもそも「時間」という概念は一体何なのか、正確に記述する事は不可能なのかもしれません。言語では包摂し切れないのではないかと思ってしまいます。我々は日常生活でも蓋然性を持って「時間」という単語を使いますが、良く良く考えると「過去が有る」とか「未来が有る」って表現も言語的には記述可能だけど、正確に概念として捉えるのは不可能な気もします。

いつもこういう事を考え始めると、最終的には堂々巡りになって頭の中が「ぴろぴろー」となって思考停止してしまいます。

閑話休題

まぁそんな感じで、俺なりに時間停止物AVを撮る方法を考えてみたって話です。最後まで読んでくれたそこの貴方には、その胆力に称賛の意を示して締めくくりたいと思います。ありがとね。

他人に共感を強制するのってどうなのよ

どうも皆さんこんにちは。

先日、池袋で『イェルマ』という映画を観てきたんですよ。ただ、映画とは言っても、ロンドンのナショナルシアターで上演された舞台を撮影した作品なので、映画なんだけれど実質的には舞台を観劇したのに等しいかもしれないです。

スペインの劇作家、ガルシーア・ロルカが1930年代に発表したオリジナルの『イェルマ』を話の筋は変えずに、時代設定や作品の舞台を現代のロンドンにアップデートした物語となっていました。あらすじは自体は原作と同様で、子宝に恵まれない夫婦が苦悩を重ね、次第にその生活を破綻させていく悲劇になっています。

手前味噌はこの辺にして本題に入るとですね、作中に子供が出来ない事が原因で起こった激しい夫婦喧嘩のシーンがあって、その時に主人公のイェルマが夫に向かって(一言一句は合ってないけど)「本当は子供なんて欲しくなかったんでしょ!!だってあなたは私と一緒に嘆いてくれなかった!!」みたいな事を半狂乱で絶叫したんですね。

※このシーンの前後には非常の色々な文脈があるので気になる方は作品を要チェック!!

この台詞を聞いた時に、何故か凄い気持ち悪いというか嫌悪感が自分の中に沸き起こったんですよ。作品を見終わった後もこの台詞を反芻していてはたと、俺は「相手に共感を強制しようとする姿勢」が凄く嫌いなんだなと気付きました。

俺は良くも悪くも個人は個人であって、心の中がどうだろうがそれは個人の自由だと思ってるんです。そこに対して、「あなたが抱いている感情は自分の意にそぐわないからダメ。あなたもこう感じるべき」みたいなのって非常にクソファックだなぁと。

相手の考えにまで立ち入って糾弾するのってディストピア小説に出てくる検閲国家みたいじゃないですか。心の中くらい自由にさせてくれよと思うんですよね。

最近のネットを見ていても、一部の先鋭化した保守やリベラルの人たちが一定の思想をもつ人を攻撃したりしてますが、「うわぁ…」って辟易するんですよ。もちろん特定の個人を傷付ける言動はダメだと思いますけど、特定の思想を持っている事自体は別に良いんじゃないんですかね。

そんでもってこう言った内容の文章を書くと「それじゃあ、あなたはペドフィリアネクロフィリアみたいな思想の持ち主を肯定するんですか!!危険ですよ!!」とか何とか色々と言われるんだけども、そもそもさ、特定の思想を持つ事と他人の権利を侵害する事って全く別じゃん。なんでそこら辺の事柄を十把一絡げにして糾弾しようとするのかが理解できないんですよ。

日本の憲法でも様々な歴史の積み重ねがあった上で内心の自由が保証されている訳だし、どうしてそこを飛び越えて脊髄反射的に「ムキーッ!!」っとなっちゃうんでしょうか。特高警察の方々なんでしょうか。

そんな事をヌルヌルと思案していると、いつも最終的に至る結論があってですね、これは人里離れた山奥でほぼ自給自足の暮らしをするしかないなと思うんですよ。もうね、世間様からは半分降りて隠居するくらいの生活がちょうどいいんじゃないかと。Amazonもあるしね。ありがとうジェフ・ベゾス

まぁ半分は冗談ですけど、ベランダで家庭菜園くらいは始めようかな。やっぱナウなヤングはオーガニックでロハススローライフでしょ。東京カレンダーみたいにね。俺も足立区でにゃんにゃんセラピストになるよ。

話が脱線しまくってるので端的にまとめると、「他人の!!思想や信条に!!ケチをつけるんじゃねぇよ!!」ってことです。

映画を観て足立区にゃんにゃんセラピストに話を持っていく些か意味不明なブログですが、今回も最後まで読んでくれた方はありがとうございました。

また次回のブログでお会いしましょう。

 

クッキーモンスターに鎮座する虚無、或いは彼の対象aについて

クッキーモンスターって知ってます?


米国の子供向け番組『セサミストリート』に登場するキャラクターで、名前は「シドニー」、クッキーが大好きな事から「クッキーモンスター」なるニックネームで親しまれ、日本でも子供から大人まで知名度の高いキャラクターだと思います。

「何でコイツはいきなりクッキーモンスターの話なんかするんだ?」って思ったそこの君、今から説明するから少し待ちなさい。

風俗店でキャストとして働くにあたって、「色恋の上手い王子様系」や「身体に詳しい技術系」とかその人に合ったキャラクターや方向性があると思うのですが、そういったオーソドックスな方向性は自分にはどれもしっくりこなかったんですね。そんな事をウンウンと思案していた時にふと、「言語が通じる面白い生き物」って良いんじゃね?と思いついたのです。

そして、その方向性をTwitterで打ち出すに当たって「クッキーモンスターってなんか意味わからんけど面白いから、ツイート内容を補完する為に抱き合わせとくか」くらいのノリで、今年の2月に彼のgifファイルと共に以下の文章(原文ママ)をツイートしたんですよ。

 

風俗キャストとしては「男性としての魅力」や「容姿」とかじゃなくて「よくわかんないけど日本語が通じる面白い生き物」というジャンルで勝負をしていきたい今日この頃。

 

本文と関係ないけどデジタルタトゥーって怖いよね。本物のタトゥーより消すの難しいんじゃないかな。

閑話休題

そしてここ最近ね、特に深く考えずツイートに使用したクッキーモンスターについて色々と考えてたんですよ。

現時点でのその考察結果については、以下の通りです。

 

①彼の口に鎮座する虚無と絶対にクッキーを食べる事は出来ない事実について

前提として彼はさ、パペットじゃん。今まで何百回も何千回もクッキーを貪り食べる映像は流れているけど、よく見るとそのクッキーは全部口から溢れてるんだよね。だって彼の口は黒く塗られているだけで穴は開いていないから。でも彼は「チョコチップクッキー美味しいなぁ!」とか嬉々として言ってる訳です。一欠片たりとも食べる事が出来ていないのにもかかわらずね。

これは衝撃的な事実ですよ。発作を起こすほどに欲しているクッキーを全く食べる事が出来ない世界に彼は生きているのです。

しかし今日も彼は、あの焦点の定まっていない表情で叫ぶのです。「クーーーッ!!キィィィーーー!!」と。そんな彼を見ていて「彼の口の中には虚無が広がっているんじゃないか」と思いました。彼の口は、この世界の全てのクッキーを飲み込める程の漆黒の闇が広がっている様でいて、その実全く飲み込む事が出来ないのです。

そこには何の実存も概念もない「虚無」だけが鎮座しているのだなぁとしみじみとしてしまいました。

 

②「対象a」としてのクッキーについて

フランスの精神分析家や哲学者として知られるジャック・ラカンって人が提唱した概念に「対象a(タイショウアーって読むらしいよ)」ってのがあるんだけど、平たく言うと「欲望の原因」の事なのね。ここで重要なのは、対象aは欲求(一時的にでも満たせる食欲とか性欲等)ではなくて欲望の原因だから、絶対に満たしたり手に入れたりする事は出来ない訳だ。それは対象aは言葉によって生じる原因だから、あくまでも象徴であって実際に掴む事は出来ないんだってさ。

一般的な例だと「お金」がわかりやすくて、貨幣は手に入るけど、概念としてのお金は絶対に手に入れられないですよね。

そしてクッキーモンスターは稚拙ながらも言語を操るキャラクターなので、どうしようもなく求めてしまうんですよ。彼の対象aであるクッキーを。しかし悲しい事に対象aを手に入れられないどころか、虚無の広がる口によって単純に「クッキーを食べる」と言う欲求を満たす事すら出来ないのです。

こんな残酷な現実を前にしてもあれほど明るく振る舞っているのは、過去に何者かによってロボトミーを施されたに違いありません。まさにアメリカ社会の闇を見ている気がします。

【まとめ】

彼は現代社会の闇が生んだモンスターなんじゃないか知らんと考えてしまいます。

加速した消費社会に飲み込まれ、感情を去勢されつつも絶対に手に入れる事が出来ない「対象a」を求め彷徨う存在である彼は、虚無が鎮座する口から我々に向かって「クッキー」という暗号で警鐘を鳴らしているのかもしれないですね。「俺みたいにはなるなよ」って。

 

P.S.

この意味不明な文章を最後まで読んだ人は本当に凄いと思うし感謝の念を禁じ得ません。ありがとうございました。

 

それではまた次回のブログでお会いしましょう。

 

「SPA Blackには所属しないの?」への回答

基本的にこのブログは俺の趣味や思想を垂れ流すのがメインなので店関係の事は余り書いていないのですが、今回は番外編みたいな感じで読んでもらえればなぁと思います。

さて、俺が今現在所属しているSPA Whiteには、SPA Blackなる姉妹店(?)、系列店(?)、上手い表現が浮かばないけれど、まぁとにかく別のお店があるんですね。

オーナーはSPA Whiteでも御馴染み「あす香」が務めていまして、SPA Whiteとの違いとしては「指入れ(女性器に指を入れるやつ)」がある点で、早い話がIラインタッチ有りのお店なんですよ。

そのSPA Blackが今年の(確か)5月にオープンしてから、割りかし色んな人に「ブラックでは働かないの?」とか「ホワイトと兼任はしないの?」等々と訊かれる事がありまして、本日はそれについての回答をしておこうかなと思います。

結論から言うと、「SPA Blackへの移籍や兼任をする予定は無い」です。

理由としては、要約すると以下に集約されます。

SPA White以外のコンセプトで施術するのであれば、「風営法売春防止法を守ってればそれ以外はキャストに任せます」みたいな所謂通常の風俗店スタイルの方に興味があるから。


ここで!!解説ターイムッ!!


キスしないし指入れもしないSPA Whiteのコンセプトってとても面白いと思ってるんですよ。だって普通の風俗店なら普通に出来る事を敢えて禁止してる訳ですから。でも、だからこそ施術中は色々な事を考える訳です。「どんな工夫をすれば良いのかな」とか「どんな触り方が良いのかな」とか。(※ここで「いや、別店舗のキャストだって色々考えてやってるんですけど」みたいなツッコミは無しだぞ。これはコンテクストの問題です)

まぁ、そんな感じでSPA Whiteのコンセプトの中で施術するのは難しさもある反面、楽しさもあるんですよ。ただ、それは一般的なヘルスプレイとは全く別の楽しさだと思っていて、仮にSPA White以外でも働くとしたら、SPA Blackではなくて所謂普通の風俗店の方が良いかなぁと思ってるのです。

これは「どっちの方が優れている」とかの話じゃなくて、「ラーメン美味しいけどカレーもハンバーグも美味しいよね」とか「ブルースはカッコいいけどジャズもロックもカッコいいよね」みたいなのと同じで、どっちも良いし優劣がある類の話ではなくて、単純に個人の趣味趣向の問題があるだけです。

そんな感じで、仮に俺がSPA White以外にも所属するとしたら、SPA Whiteとの掛け持ちを認めてくれる全く別のお店になると思います。

例えば、基本的にはSPA Whiteに居るけど毎週木曜日だけは◯◯◯ってお店にいまーすって感じですかね。そんなおおらかなお店があるのかは知りませんが(笑)

そんな感じで今の俺の考えはここに書いた通りなので、そこんとこよろしくお願いします。

 

それではアデュー

七夕の物語が嫌いな理由

明日は七夕ですね。突然ですが俺は織姫と彦星の話が嫌いなんですよ。もうね、「うわぁ…揃いも揃ってクソ野郎ばっかりじゃん…」と思うのですよ。本日はその理由について滔々と書き垂らそうと思います。あの話が好きな人はごめんね。戻るボタンを押しましょう。

手前味噌ですが、物語の(若干恣意的な)概略から入ります。

昔々、天帝って名前の超偉い神様がいて、彼には織姫って名前の娘がいたんですね。彼女は機織りがすげー上手くて、現在だったらバレンシアガやフェンディも目じゃないくらいのプロダクトを日々黙々と織っていたんですよ。

ある日のこと、パラノイアックに機織りばっかりやってる娘も年頃だしそろそろ伴侶を持たせないとヤベェなって思った天帝はどっかから彦星って名前の結婚相手を探してくるんですね。彦星くんは牛の世話がめっちゃ好きで、今ならネットでナードとかギークとか言われてそうな感じの青年だったんだろうけど、まぁ織姫と彦星は波長が合ったんだかなんだか知りませんがお互いに惹かれあったんですよ。

結婚してから2人は以前はヤバイくらいに没頭していた機織りと牛の世話を放棄して遊んで暮らすようになったんですよ。そりゃあ新婚だし惹かれあった2人だから一緒にいたら楽しいよね。収入源は何処にあったのか知らないけど差し当たって仕事をしなくても生きていける状況だったんでしょう。ベーシックインカムとかあったのかなぁ。

そんな2人を見た天帝は何度か「お前らちゃんと働けや」って注意するんだけど、2人は空返事だけで全く働かなかったんですね。そんな事が続いて、怒髪天を突いちゃった天帝が2人を天の川を隔てて東西に吹っ飛ばしたんですよ。イメージとしては、ONE PIECEに出てくるバーソロミュー・くまの「ニキュニキュの実」の能力みたいな感じなんだと思います。天帝ヤバい奴だよね。能力者だったなんて。

いきなり吹っ飛ばされちゃったもんだから2人は悲しみに暮れて再度働き始める事も出来なかったんですよ。そりゃあそうだよね。俺もいきなりウガンダとかに飛ばされたら勤労意欲無くなるもん。

それを見兼ねた天帝は「真面目に働けば年1で会わせてやるよ」って条件を提示したの。それを聞いた2人は真面目に働き始めて、年に1回だけ会うことが出来るようになったらしい。その日が毎年7月7日で、2人はその日会える事をモチベーションにして日々を真面目に勤勉に過ごしています、浪漫ちっくですね、めでたしめでたし。って物語なんだけど、これ全くもって浪漫ちっくじゃないしめでたくもないでしょ。以下その理由を述べる。

①天帝が旧態依然の毒親過ぎる

先ずさ、成人して独立した子供の家庭にそんな口出ししないでしょ。助言くらいなら良いよ。「働かなくて大丈夫?楽しそうなのは良いケド、お父さん心配だなぁ」とかならわかるけど、他人の家庭事情に介入し過ぎでしょ。そんで最終的には実力行使とか幾ら何でもやり過ぎだよ。あと、娘夫妻を自分の思い通りに操れると考えてる所が旧態依然の家父長制って感じで好きじゃない。いやいやあなた何様だよって感じです。いや、神様か。すみません。

②織姫と彦星がヘタレ

百歩譲って天帝に吹っ飛ばされて悲しみに暮れるまでは良いよ。天帝は権力者だしめっちゃ強いんだろうからしょうがないでしょう。でもさ、そこからは反抗しようぜって思うのですよ。なんで「年1で会わせてやるよ」って条件を受け入れちゃうのかが意味不明じゃん。そこはやっぱり天帝に対して反旗を翻さないといけんでしょう。織姫だって天帝の娘なんだから何かしらスーパーナチュラルな能力持ってるんじゃないの。彦星もさ、義理の父親に物申すのは心苦しいかもしれないけどなんかこう、あるでしょ。スターライトエクスプロージョンみたいな能力がさ。

親の言うこと聞いて年1の逢瀬を大切にする姿勢が去勢され過ぎだし、エディプスコンプレックスこじらせ過ぎだしロマンチシズムのカケラも感じない。

③労働環境が悪い

なんでも、彼らが労働を辞めた影響で織物の供給がストップしたり牛が病気になったりして周りから苦情がきて、再度労働に従事せざるを得なかったらしいじゃないですか。いやいや、一昔前のすき家の夜勤じゃないんだからそこは分業するでしょ普通。仮に分業不可能な労働なんだったら、そこを論点にして労使交渉をするべきですよ。この天帝と織姫夫妻の関係って資本家と飼い慣らされた労働者って感じで見ていて慊りないんです。

あの夫妻はロマノフ王朝を打倒したスターリンを見習って、徹底的非合法路線で天帝王朝に対して革命を起こすべきです。先ずは「共産党宣言」を読んで団結するところからですね。是非とも今後の生活の為に革命的思想をインストールして頂きたい。

 

以上が嫌いな理由です。何と言うか、物語の中に旧態依然な家父長制的な価値観や去勢された姿勢、ブラック企業ばりの労働環境等々、俺の嫌いなエッセンスがふぁさーっと散りばめられてるんですね。まぁ、原典をちゃんと読めばまた違う視座も得られるんでしょうけど、今時点では好きじゃないですね。半分くらいネタで書いてますが、そんな感じです。

 

アデュー。